真宗大谷派西敬寺

 

 

顕浄土真実教行証文類序

1竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。2しかればすなわち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。3かるがゆえに知りぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。4しかれば、凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、特に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。5ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。6ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。

大無量寿経 真実の教

      浄土真宗

顕真実教 一

顕真実行 二

顕真実信 三

顕真実証 四

顕真仏土 五

顕化身土 六

 

顕浄土真実教文類一

1謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり。

2それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。

3この経の大意は、弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、選びて功徳の宝を施することをいたす。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。4ここをもって、如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり。

5何をもってか、出世の大事なりと知ることを得るとならば、

6『大無量寿経』に言わく、今日世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔魏魏とましますこと、明らかなる鏡、浄き影表裏に暢るがごとし。威容顕曜にして、超絶したまえること無量なり。未だかつて瞻覩せず、殊妙なること今のごとくましますをば。ややしかなり。大聖、我が心に念言すらく、「今日、世尊、奇特の法に住したまえり。今日、世雄、仏の所住に住したまえり。今日、世眼、導師の行に住したまえり。今日、世英、最勝の道に住したまえり。今日、天尊、如来の徳を行じたまえり。去来現の仏、仏と仏をあい念じたまえり。今の仏も諸仏を念じたまうこと、なきことを得んや。何がゆえぞ威神の光、光いまし爾る」と。ここに世尊、阿難に告げて曰わく、「諸天の汝を教えて来して仏に問わしむるか、自ら慧見をもって威顔を問えるか」と。阿難、仏に白さく、「諸天の来りて我を教うる者、あることなけん。自ら所見をもって、この義を問いたてまつるならくのみ」と。仏の言わく、「善いかな阿難、問えるところ甚だ快し。深き智慧、真妙の弁才を発して、衆生を愍念せんとして、この慧義を問えり。如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したもう。世に出興する所以は、道教を光闡して、群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。無量億劫にも値いがたく、見たてまつりがたきこと、霊瑞華の時あって時にいまし出ずるがごとし。今問えるところは饒益するところ多し。一切の諸天・人民を開化す。阿難、当に知るべし、如来の正覚はその智量りがたくして、導御したまうところ多し。慧見無碍にして、よく遏絶することなし」と。已上

7『無量寿如来会』に言わく、阿難、仏に白して言さく、「世尊、我如来の光瑞希有なるを見たてまつるがゆえに、この念を発せり。天等に因るにあらず」と。仏、阿難に告げたまわく、「善いかな、善いかな。汝、今快く問えり。よく微妙の弁才を観察して、よく如来に如是の義を問いたてまつれり。汝、一切如来・応・正等覚および大悲に安住して、群生を利益せんがために、優曇華の希有なるがごとくして、大士世間に出現したまえり。かるがゆえにこの義を問いたてまつる。また、もろもろの衆生を哀愍し利楽せんがためのゆえに、よく如来に如是の義を問いたてまつれり」と。已上

8『平等覚経』に言わく、仏、阿難に告げたまわく、「世間に優曇鉢樹あり、ただ実ありて華あることなし、天下に仏まします、いまし華の出ずるがごとしならくのみ。世間に仏ましませども、はなはだ値うことを得ること難し。今、我仏に作りて天下に出でたり。もし大徳ありて、聡明善心にして仏意を知るによって、もしわすれずは、仏辺にありて仏に侍えたてまつるなり。もし今問えるところ、普く聴き、諦らかに聴け」と。已上

9(述文賛)憬興師の云わく、「今日世尊住奇特法」というは、神通輪に依って現じたまうところの相なり、ただ常に異なるのみにあらず、また等しき者なきがゆえに。「今日世雄住仏所住」というは、普等三昧に住して、よく衆魔・雄健天を制するがゆえに。「今日世眼住導師行」というは、五眼を導師の行となづく、衆生を引導するに過上なきがゆえに。「今日世英住最勝道」というは、仏、四智に住したまう、独り秀でたまえること、匹しきことなきがゆえに。「今日天尊行如来徳」というは、すなわち第一義天なり。仏性不空の義をもってのゆえに。「阿難当知如来正覚」というは、すなわち奇特の法なり。「慧見無碍」というは、最勝の道を述するなり。「無能遏絶」というは、すなわち如来の徳なり。已上

10しかればすなわち、これ顕真実教の明証なり。誠にこれ、如来興世の正説、奇特最勝の妙典、一乗究竟の極説、速疾円融の金言、十方称讃の誠言、時機純熟の真教なり。知るべし、と。

顕浄土真実教文類一

 

顕浄土真実行文類二

 

    諸仏称名の願 浄土真実の行

           選択本願の行

 

顕浄土真実行文類二

1謹んで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。2大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。かるがゆえに大行と名づく。3しかるにこの行は、大悲の願より出でたり。すなわちこれ諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく。また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。

4諸仏称名の願、

『大経』に言わく、設い我仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して我が名を称せずは、正覚を取らじ、と。已上

5また言わく、我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ、と。衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法師子吼せん、と。抄要

6願成就の文、『経』に言わく、十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう。已上

7また言わく、無量寿仏の威神、極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、彼を称嘆せざるはなし、と。已上

8また言わく、その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲えば、みなことごとくかの国に到りて自ずから不退転に致る、と。已上

9『無量寿如来会』に言わく、いま如来に対して弘誓を発せり。当に無上菩提の因を証すべし。もしもろもろの上願を満足せずは、十力無等尊を取らじ、と。心あるいは常行に堪ざらんものに施せん。広く貧窮を済いてもろもろの苦を免れしめ、世間を利益して安楽ならしめん、と。乃至 最勝丈夫修行し已りて、かの貧窮において伏蔵とならん。善法を円満して等倫なけん。大衆の中にして師子吼せん、と。已上抄出

10また言わく、阿難、この義利をもってのゆえに、無量無数不可思議無有等等無辺世界の諸仏如来、みな共に無量寿仏の所有の功徳を称讃したまう、と。已上

11『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』に言わく、第四に願ずらく、「それがし作仏せしめん時、我が名字をもって、みな八方上下無央数の仏国に聞こえしめん。みな、諸仏おのおの比丘僧大衆の中にして、我が功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、我が名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せん者、みな我が国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、終に作仏せじ」と。已上

12『無量清浄平等覚経』巻上に言わく、我作仏せん時、我が名をして八方・上下・無数の仏国に聞かしめん。諸仏、おのおの弟子衆の中にして我が功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、我が名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、我が国に来生せしめん。しからずは我作仏せじ、と。

13我作仏せん時、他方仏国の人民、前世に悪のために我が名字を聞き、および正しく道のために我が国に来生せんと欲わん。寿終えてみなまた三悪道に更らざらしめて、すなわち我が国に生まれんこと、心の所願にあらん。しからずは我作仏せじ、と。

14阿闍世王太子および五百の長者子、無量清浄仏の二十四願を聞きて、みな大きに歓喜し踊躍して、心中にともに願じて言わまく、「我等後に、作仏せん時、みな無量清浄仏のごとくならしめん」と。仏すなわちこれを知ろしめして、もろもろの比丘僧に告げたまわく、「この阿闍世王太子および五百の長者子、後無央数劫を却りて、みな当に作仏して無量清浄仏のごとくなるべし」と。仏の言わく、「この阿闍世王太子・五百の長者子、菩薩の道を作してこのかた無央数劫に、みなおのおの四百億仏を供養し已りて、今また来りて我を供養せり。この阿闍世王太子および五百人等、みな前世に迦葉仏の時、我がために弟子と作れりき。今みなまた会して、これ共にあい値えるなり。」すなわちもろもろの比丘僧、仏の言を聞きて、みな心踊躍して歓喜せざる者なけん、と。乃至

15かくのごときの人、仏の名を聞きて、 快安穏にして、大利を得ん

我等が類、この徳を得ん。 もろもろのこの刹に好きところを獲ん。

無量覚、この決を授けん。 我、前世に本願あり。

一切の人、法を説くを聞かば、 みなことごとく我が国に来生せん。

吾が願ずるところ、みな具足せん。 もろもろの国より来生せん者、

みなことごとくこの間に来到して、一生に不退転を得ん。

速やかに疾く超えて、すなわち、 安楽国の世界に到るべし。

無量光明土に至りて、 無数の仏を供養せん。

この功徳あるにあらざる人は、 この経の名を聞くことを得ず。

ただ清浄に戒を有てる者、 いまし還りてこの正法を聞く。

悪と憍慢と蔽と懈怠のものは、 もってこの法を信ずること難し。

宿世の時、仏を見たてまつれる者、 楽んで世尊の教を聴聞せん。

人の命、まれに得べし。 仏、世にましませども、はなはだ値いがたし。

信慧ありて致るべからず。 もし聞見せば、精進して求めよ。

この法を聞きて忘れず、 すなわち見て敬い、得て大きに慶ばば、

すなわち我が善き親厚なり。 これをもってのゆえに道意を発せよ。

たとい世界に満てらん火にも、 この中を過ぎて法を聞くことを得ば、

かならず当に世尊と作りて、将に 一切生老死を度せんとすべし、と。已上

16『悲華経』「大施品」の二巻に言わく、曇無讖三蔵訳 願わくは、我、阿耨多羅三藐三菩提を成り已らんに、無量無辺阿僧祇の余仏の世界の所有の衆生、我が名を聞かん者、もろもろの善本を修して我が界に生まれんと欲わん。願わくはそれ捨命の後、必定して生を得しめん。ただ、五逆と、聖人を誹謗せんと、正法を廃壊せんとを除かん、と。已上

17しかれば名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう。称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなわちこれ念仏なり。念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なりと、知るべしと。

18『十住毘婆沙論』(入初地品)に曰わく、ある人の言わく、「般舟三昧および大悲を諸仏の家と名づく、この二法よりもろもろの如来を生ず。」この中に般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。また次に、般舟三昧はこれ父なり、無生法忍はこれ母なり。『助菩提』(菩提資糧論)の中に説くがごとし。「般舟三昧の父、大悲無生の母、一切のもろもろの如来、この二法より生ず」と。家に過咎なければ家清浄なり。かるがゆえに「清浄」は六波羅蜜・四功徳処なり。方便般若波羅蜜は善慧なり。般舟三昧・大悲・諸忍、この諸法清浄にして過あることなし。かるがゆえに「家清浄」と名づく。この菩薩、この諸法をもって家とするがゆえに、過咎あることなけん。世間道を転じて、出世上道に入るものなり。「世間道」はすなわちこれ「凡夫所行の道」と名づく。転じて「休息」と名づく。凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたわず、常に生死に往来す。これを「凡夫道」と名づく。「出世間」はこの道に因って三界を出ずることを得るがゆえに、「出世間道」と名づく。「上」は、妙なるがゆえに、名づけて「上」とす。「入」は、正しく道を行ずるがゆえに、名づけて「入」とす。この心をもって初地に入るを「歓喜地」と名づく、と。

19問うて曰わく、初地、何がゆえぞ名づけて「歓喜」とするや。答えて曰わく、初果の究竟して涅槃に至ることを得るがごとし。菩薩この地を得れば、心常に歓喜多し。自然に諸仏如来の種を増上することを得。このゆえに、かくのごときの人を「賢善者」と名づくことを得。「初果を得るがごとし」というは、人の須陀洹道を得るがごとし。善く三悪道の門を閉ず。法を見、法に入り、法を得て堅牢の法に住して傾動すべからず、究竟して涅槃に至る。見諦所断の法を断ずがゆえに、心大きに歓喜す。たとい睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。一毛をもって百分となして、一分の毛をもって大海の水を分かち取るがごときは、二三渧の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余の未だ滅せざる者のごとし。二三渧のごとき心、大きに歓喜せん。菩薩もかくのごとし。初地を得已るを「如来の家に生まる」と名づく。一切天・龍・夜叉・乾闥婆 乃至 声聞・辟支仏等、共に供養し恭敬するところなり。何をもってのゆえに。この家、過咎あることなし。かるがゆえに世間道を転じて出世間道に入る。ただ仏を楽敬すれば四功徳処を得、六波羅蜜の果報を得ん。滋味、もろもろの仏種を断たざるがゆえに、心大きに歓喜す。この菩薩所有の余の苦は、二三の水渧のごとし。百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提を得といえども、無始生死の苦においては、二三の水渧のごとし。滅すべきところの苦は大海の水のごとし。このゆえにこの地を名づけて「歓喜」とす。

20(地相品)問うて曰わく、初歓喜地の菩薩、この地の中にありて「多歓喜」と名づけて、もろもろの功徳を得ることをなすがゆえに、歓喜を地とす。法を歓喜すべし。何をもって歓喜するや。答えて曰わく、「常に諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して希有の行なり。このゆえに歓喜多し」と。かくのごとき等の歓喜の因縁のゆえに、菩薩、初地の中にありて心に歓喜多し。「諸仏を念ず」というは、然燈等の過去の諸仏・阿弥陀等の現在の諸仏・弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり。常にかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし。三界第一にして、よく勝れたる者ましまさず。このゆえに歓喜多し。諸仏の大法を念ぜば、略して諸仏の四十不共法を説かんと。一つには自在の飛行意に随う。二つには自在の変化辺なし。三つには自在の所聞無閡なり。四つには自在に無量種門をもって、一切衆生の心を知ろしめすと。乃至。「念必定のもろもろの菩薩」は、もし菩薩、阿耨多羅三藐三菩提の記を得つれば、法位に入り無生忍を得るなり。千万億数の魔の軍衆、壊乱することあたわず。大悲心を得て大人法を成ず。乃至 これを「念必定の菩薩」と名づく。「希有の行を念ず」というは、必定の菩薩第一希有の行を念ずるなり。心に歓喜せしむ。一切凡夫の及ぶことあたわざるところなり。一切の声聞・辟支仏の行ずることあたわざるところなり。仏法無閡解脱および薩婆若智を開示す。また十地のもろもろの所行の法を念ずれば、名づけて「心多歓喜」とす。このゆえに、菩薩初地に入ることを得れば名づけて「歓喜」とすと。

21問うて曰わく、凡夫人の未だ無上道心を発せざるあり。あるいは発心する者あり、未だ歓喜地を得ざらん。この人、諸仏および諸仏の大法を念ぜんと、必定の菩薩および希有の行を念じて、また歓喜を得ん、と。初地を得ん菩薩の歓喜と、この人と、何の差別あるや。答えて曰わく、菩薩初地を得ば、その心歓喜多し。諸仏無量の徳、我また定んで当に得べし。初地を得ん必定の菩薩は、諸仏を念ずるに無量の功徳有す。我当に必ずかくのごときの事を得べし。何をもってのゆえに。我すでにこの初地を得、必定の中に入れり。余はこの心あることなけん。このゆえに初地の菩薩、多く歓喜を生ず。余はしからず。何をもってのゆえに。余は諸仏を念ずといえども、この念を作すことあたわず。我必ず当に作仏すべしと。たとえば、転輪聖子の、転輪王の家に生まれて、転輪王の相を成就して、過去の転輪王の功徳尊貴を念じて、この念を作さん、「我今またこの相あり、また当にこの豪富尊貴を得べし。」心大きに歓喜せん。もし転輪王の相なければ、かくのごときの喜びなからんがごとし。必定の菩薩、もし諸仏および諸仏の大功徳・威儀・尊貴を念ずれば「我この相あり、必ず当に作仏すべし。」すなわち大きに歓喜せん。余はこの事あることなけん。定心は深く仏法に入りて心動ずべからず。

22(浄地品)また云わく、「信力増上」はいかん。聞見するところありて、必受して疑いなければ「増上」と名づく、「殊勝」と名づくと。問うて曰わく、二種の増上あり、一つには多、二つには勝なり。今の説なにものぞ、と。答えて曰わく、この中の二事ともに説かん。菩薩初地に入ればもろもろの功徳の味わいを得るがゆえに、信力転増す。この信力をもって諸仏の功徳無量深妙なるを籌量して、よく信受す。このゆえにこの心また多なり、また勝なり。23深く大悲を行ずれば、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆえに、名づけて「深」とす。

一切衆生のために仏道を求むるがゆえに、名づけて「大」とす。「慈心」は、常に利事を求めて衆生を安穏す。「慈」に三種あり。乃至

24(易行品)また曰わく、仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行はすなわち苦しく、水道の乗船はすなわち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至る者あり。乃至 25もし人疾く不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし。もし菩薩この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当にこの十方諸仏を念ずべし。名号を称すること、『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」の中に説くがごとしと。乃至 西方に善世界の仏を無量明と号す。身光智慧明らかにして、照らすところ辺際なし。それ名を聞くことある者は、すなわち不退転を得と。乃至 過去無数劫に仏まします、海徳と号す。このもろもろの現在の仏、みな彼に従って願を発せり。寿命量りあることなし。光明照らして極まりなし。国土はなはだ清浄なり。名を聞きて定んで仏に作らん、と。乃至

26問うて曰わく、ただこの十仏の名号を聞きて執持して心に在けば、すなわち阿耨多羅三藐三菩提を退せざることを得。また余仏・余菩薩の名ましまして阿惟越致に至ることを得とやせん。答えて曰わく、阿弥陀等の仏および諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得ることかくのごとし。阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし。

27いま当につぶさに無量寿仏を説くべし。世自在王仏乃至その余の仏まします、この諸仏世尊、現在十方の清浄世界世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。もし人、我を念じ名を称して自ずから帰すれば、すなわち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得、このゆえに常に憶念すべしと。偈をもって称讃せん。

28無量光明慧、身は真金の山のごとし。

我いま身口意をして、合掌し稽首し礼したてまつると。乃至

人よくこの仏の、無量力功徳を念ずれば、

即のときに必定に入る。このゆえに我常に念じたてまつる。乃至

もし人、仏に作らんと願じて、心に阿弥陀を念じたてまつれば、

時に応じてために身を現じたまわん。このゆえに我、

かの仏の本願力を帰命す。十方のもろもろの菩薩も、

来りて供養し法を聴く。このゆえに我稽首したてまつると。乃至

もし人善根を種えて、疑えばすなわち華開けず。

信心清浄なる者は、華開けてすなわち仏を見たてまつる。

十方現在の仏、種種の因縁をもって、

かの仏の功徳を嘆じたまう。我いま帰命し礼したてまつると。乃至

かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。

自ら度しまた彼を度せん。我自在人を礼したてまつる。

諸仏無量劫に、その功徳を讃揚せんに、

なお尽くすことあたわじ。清浄人を帰命したてまつる。

我いままたかくのごとし。無量の徳を称讃す。

この福の因縁をもって、願わくは仏、常に我を念じたまえ、と。抄出

29『浄土論』に曰わく、

我修多羅 真実功徳相に依って、

願偈総持を説きて、仏教と相応せり、と。

仏の本願力を観ずるに 遇うて空しく過ぐる者なし。

よく速やかに 功徳の大宝海を満足せしむ、と。

30また曰わく、菩薩は四種の門に入りて自利の行成就したまえりと、知るべし、と。菩薩は第五門に出でて回向利益他の行成就したまえりと、知るべし。菩薩はかくのごとく五門の行を修して、自利利他して、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまえるがゆえに、と。抄出

31『論の註』に曰わく、謹んで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるに、云わく、菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。難行道は、いわく五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。この難にいまし多くの途あり。粗五三を言うて、もって義の意を示さん。一つには、外道の相 修醤の反 善は菩薩の法を乱る。二つには、声聞は自利にして大慈悲を障う。三つには、無顧の悪人、他の勝徳を破す。四つには、顛倒の善果よく梵行を壊す。五つには、ただこれ自力にして他力の持つなし。これ等のごときの事、目に触るるにみな是なり。たとえば、陸路の歩行はすなわち苦しきがごとし。「易行道」は、いわく、ただ信仏の因縁をもって浄土に生まれんと願ず。仏願力に乗じて、すなわちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。たとえば、水路に船に乗じてすなわち楽しきがごとし。この『無量寿経優婆提舎』は、けだし上衍の極致、不退の風航なるものなり。「無量寿」はこれ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城および舎衛国にましまして、大衆の中にして、無量寿仏の荘厳功徳を説きたまう。すなわち、仏の名号をもって経の体とす。後の聖者・婆薮般豆菩薩、如来大悲の教を服膺 一升の反 して、経に傍えて願生の偈を作れり、と。已上

32また云わく、また所願軽からず。もし如来、威神を加せずは、まさに何をもってか達せん。神力を乞加す。このゆえに仰いで告げたまえり。「我一心」は、天親菩薩の自督の詞なり。言うこころは、無碍光如来を念じて安楽に生まれんと願ず。心心相続して他想間雑なし。乃至 「帰命尽十方無碍光如来」は、「帰命」はすなわちこれ礼拝門なり、「尽十方無碍光如来」はすなわちこれ讃嘆門なり。何をもってか知らん、帰命はこれ礼拝なりとは。龍樹菩薩、阿弥陀如来の讃を造れる中に、あるいは「稽首礼」と言い、あるいは「我帰命」と言い、あるいは「帰命礼」と言えり。この『論』の長行の中に、また「五念門を修す」と言えり。五念門の中に、礼拝はこれ一なり。天親菩薩すでに往生を願ず。あに礼せざるべけんや。かるがゆえに知りぬ、帰命はすなわちこれ礼拝なりと。しかるに礼拝はただこれ恭敬にして、必ずしも帰命ならず。帰命は(必ず)これ礼拝なり。もしこれをもって推するに、帰命は重とす。偈は己心を申ぶ、宜しく帰命と言うべし。『論』に偈義を解するに、ひろく礼拝を談ず。彼・此あい成ず、義においていよいよ顕れたり。何をもってか知らん、「尽十方無碍光如来はこれ讃嘆門なり」とは。下の長行の中に言わく、「いかんが讃嘆する。いわく、かの如来の名を称す。かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲うがゆえに」と。乃至 天親いま「尽十方無碍光如来」と言えり。すなわちこれ、かの如来の名に依って、かの如来の光明智相のごとく讃嘆するがゆえに、知りぬ、この句はこれ讃嘆門なりとは。「願生安楽国」は、この一句はこれ作願門なり、天親菩薩帰命の言なり。乃至 問うて曰わく、大乗経論の中に処処に「衆生、畢竟無生にして虚空のごとし」と説きたまえり。いかんぞ天親菩薩、願生と言うや。答えて曰わく、「衆生無生にして虚空のごとし」と説くに、二種あり。一つには、凡夫の実の衆生と謂うところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて有らゆることなけん、亀毛のごとし、虚空のごとしと。二つには、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとしと。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生・実の生死ありと謂うがごときにはあらざるなり。問うて曰わく、何の義に依って往生と説くぞや。答えて曰わく、この間の仮名の人の中において、五念門を修せしむ。前念と後念と因と作る。穢土の仮名の人・浄土の仮名の人、決定して一を得ず、決定して異を得ず。前心・後心またかくのごとし。何をもってのゆえに。もし一ならばすなわち因果なけん。もし異ならばすなわち相続にあらず。この義、一異を観ずる門なり。『論』の中に委曲なり。第一行の三念門を釈し竟りぬと。乃至

33「我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応」とのたまえりと。乃至 「何の所にか依る」、「何の故にか依る」、「云何が依る」、と。「何の所にか依る」は、修多羅に依るなり。「何の故にか依る」は、如来すなわち真実功徳の相なるをもってのゆえに。「云何が依る」は、五念門を修して相応せるがゆえにと。乃至 「修多羅」は、十二部経の中の直説のものを「修多羅」と名づく。いわく四阿含・三蔵等の外の大乗の諸経をまた「修多羅」と名づく。この中に「依修多羅」と言うは、これ三蔵の外の大乗修多羅なり、阿含等の経にはあらざるなり。「真実功徳相」は、二種の功徳あり。一つには、有漏の心より生じて法性に順ぜず。いわゆる凡夫人天の諸善・人天の果報、もしは因・もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。このゆえに不実の功徳と名づく。二つには、菩薩の智慧・清浄の業より起こりて仏事を荘厳す。法性に依って清浄の相に入れり。この法顛倒せず、虚偽ならず、真実の功徳相と名づく。いかんが顛倒せざる、法性に依り二諦に順ずるがゆえに。いかんが虚偽ならざる、衆生を摂して畢竟浄に入るがゆえなり。「説願偈総持 与仏教相応」は、「持」は不散不失に名づく。「総」は、少をもって多を摂するに名づく。乃至 「願」は欲楽往生に名づく。乃至 「与仏教相応」は、たとえば函蓋相称するがごとしとなり。乃至

34「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」とのたまえり。回向に二種の相あり、一つには往相、二つには還相なり。往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまえるなり、と。抄出

35『安楽集』に云わく、『観仏三昧経』に云わく、「父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまう。父の王、仏に白さく、「仏地の果徳、真如実相、第一義空、何に因ってか弟子をしてこれを行ぜしめざる」と。仏、父王に告げたまわく、「諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆえに、父王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる」と。父王、仏に白さく、「念仏の功、その状いかんぞ」と。仏、父王に告げたまわく、「伊蘭林の方四十由旬ならんに、一科の牛頭栴檀あり。根芽ありといえども、なお未だ土を出でざるに、その伊蘭林ただ臭くして香ばしきことなし。もしその華菓を噉ずることあらば、狂を発して死せん。後の時に栴檀の根芽ようやく生長して、わずかに樹にならんと欲す。香気昌盛にして、ついによくこの林を改変してあまねくみな香美ならしむ。衆生見る者、みな希有の心を生ぜんがごとし。」仏、父王に告げたまわく、「一切衆生、生死の中にありて、念仏の心もまたかくのごとし。ただよく念を繫けて止まざれば、定んで仏前に生ぜん。ひとたび往生を得れば、すなわちよく一切諸悪を改変して大慈悲を成ぜんこと、かの香樹の伊蘭林を改むるがごとし。」」言うところの「伊蘭林」は、衆生の身の内の三毒・三障、無辺の重罪に喩う。「栴檀」と言うは、衆生の念仏の心に喩う。「わずかに樹に成らんと欲す」というは、いわく、一切衆生ただよく念を積みて断えざれば、業道成弁するなり。

問うて曰わく、一切衆生の念仏の功を計りて、また一切知るべし。何に因ってか、一念の功力よく一切の諸障を断つこと、一の香樹の四十由旬の伊蘭林を改めて、ことごとく香美ならしむるがごとくならんや。答えて曰わく諸部の大乗に依って念仏三昧の功能の不可思議なるを顕さんとなり。いかんとならば、『華厳経』に云うがごとし。「たとえば人ありて、師子の筋をもって、もって琴の絃とせんに、音声ひとたび奏するに一切の余の絃ことごとくみな断壊するがごとし。もし人、菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩、一切の諸障、ことごとくみな断滅すと。また人ありて、牛・羊・驢馬一切の諸乳を搆し取りて一器の中に置かんに、もし師子の乳一渧をもってこれを投ぐるに、直ちに過ぎて難なし。一切の諸乳ことごとくみな破壊して変じて清水となるがごとし。もし人ただよく菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔・諸障、直ちに過ぐるに難なし。」またかの『経』に云わく、「たとえば人ありて、翳身薬をもって処処に遊行するに、一切の余行この人を見ざるがごとし。もしよく菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪神・一切の諸障この人を見ず、もろもろの処処に随いてよく遮障することなきなり。何がゆえぞとならば、よくこの念仏三昧を念ずるは、すなわちこれ一切三昧の中の王なるがゆえなり」と。

36また云わく、『摩訶衍』(大智度論)の中に説きて云うがごとし、「諸余の三昧、三昧ならざるにはあらず。何をもってのゆえに。あるいは三昧あり、ただよく貪を除いて、瞋痴を除くことあたわず。あるいは三昧あり、ただよく瞋を除いて、痴貪を除くことあたわず。あるいは三昧あり、ただよく痴を除いて、瞋を除くことあたわず。あるいは三昧あり、ただよく現在の障を除いて、過去・未来の一切の諸障を除くことあたわず。もしよく常に念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来の一切の諸障を問うことなく、みな除くなり。」

37また云わく、『大経の賛』(讃阿弥陀仏偈)に云わく、「もし阿弥陀の徳号を聞きて、歓喜賛仰し心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得、すなわち功徳の宝を具足すとす。たとい大千世界に満てらん火をも、また直ちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞かば、また退せず。このゆえに心を至して稽首し礼したてまつる」と。

38また云わく、また『目連所問経』のごとし。仏、目連に告げたまわく、「たとえば万川長流に草木ありて、前は後を顧みず、後は前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴富楽自在なることありといえども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。ただ仏経を信ぜざるに由って、後世に人となって、更にはなはだ困劇して千仏の国土に生まるることを得ることあたわず。このゆえに我説かく、無量寿仏国は往き易く取り易くして、人修行して往生することあたわず。かえって九十五種の邪道に事う。我この人を説きて、「眼なき人」と名づく、「耳なき人」と名づく」と。経教すでにしかなり。何ぞ難を捨てて易行道に依らざらん、と。已上

39(往生礼讃)光明寺の和尚の云わく、また『文殊般若』に云うがごとし。「一行三昧を明かさんと欲う。ただ勧めて、独り空閑に処してもろもろの乱意を捨て、心を一仏に係けて、相貌を観ぜず、専ら名字を称すれば、すなわち念の中において、かの阿弥陀仏および一切仏等を見たてまつるを得」といえり。問うて曰わく、何がゆえぞ観を作さしめずして、直ちに専ら名字を称せしむるは、何の意かあるや。答えて曰わく、いまし衆生障重くして、境は細なり、心は麁なり、識颺り、神飛びて、観成就しがたきに由ってなり。ここをもって、大聖悲憐して、直ちに勧めて専ら名字を称せしむ。正しく称名、易きに由るがゆえに、相続してすなわち生ずと。問うて曰わく、すでに専ら一仏を称せしむるに、何がゆえぞ境、現ずることすなわち多き。これ、あに邪正あい交わり、一多雑現するにあらずや。答えて曰わく、仏と仏と斉しく証して、形、二の別なし。たとい一を念じて多を見ること、何の大道理にか乖かんや。また『観経』に云うがごとし。「勧めて座観・礼念等を行ぜしむ。みな須らく面を西方に向かうは最勝なるべし。」樹の先より傾けるが倒るるに、必ず曲がれるに随うがごとし。かるがゆえに、必ず事の碍ありて西方に向かうに及ばずは、ただ西に向かう想を作すに、また得たり。問うて曰わく、一切諸仏、三身同じく証し、悲智果円にして、また無二なるべし。方に随いて一仏を礼念し課称せんに、また生まるることを得べし。何がゆえぞ、ひとえに西方を嘆じて専ら礼念等を勧むる、何の義があるや。答えて曰わく、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもって来し取るに、因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明名号をもって十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむれば、上一形を尽くし、下十声・一声等に至るまで、仏願力をもって往生を得易し。このゆえに釈迦および諸仏、勧めて西方に向かうるを別異と為ならくのみと。またこれ余仏を称念して、障を除き罪を滅することあたわざるにはあらざるなりと、知るべし。もしよく上のごとく念念相続して、畢命を期とする者は、十即十生、百即百生なり。何をもってのゆえに。外の雑縁なし、正念を得るがゆえに、仏の本願と相応を得たるがゆえに、教に違せざるがゆえに、仏語に随順するがゆえなり、と。已上

40また云わく、ただ念仏の衆生を観そなわして、摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく、と。已上

41また云わく、弥陀の智願海は深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲えば、みなことごとくかの国に到ると。たとい大千に満てらん火にも、直ちに過ぎて仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃すれば、みな当に彼に生まるることを得べし。万年に三宝滅せんに、この経、住すること百年せん。その時、聞きて一念せん、みな当に彼に生まるることを得べし、と。抄要

42また云わく、現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪回せり。苦しみ言うべからず。いま善知識に遇いて弥陀本願の名号を聞くことを得たり。一心称念して往生を求願せよと。願わくは、仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまわざれば、弟子を摂受したまうべし、と。已上

43また云わく、問うて曰わく、阿弥陀仏を称念し礼観して、現世にいかなる功徳利益かあるや。答えて曰わく、もし阿弥陀仏を称すること一声するに、すなわちよく八十億劫の生死の重罪を除滅す。礼念已下ももまたかくのごとし。『十往生経』に云わく、「もし衆生ありて、阿弥陀仏を念じて往生を願ずれば、かの仏すなわち二十五菩薩を遣わして行者を擁護して、もしは行、もしは座、もしは住、もしは臥、もしは昼、もしは夜、一切時・一切処に、悪鬼悪神をしてその便を得しめざるなり。」また『観経』に云うがごとし、「もし阿弥陀仏を称礼念してかの国に往生せんと願えば、かの仏、すなわち無数の化仏・無数の化観音・勢至菩薩を遣わして、行者を護念したまう。」また前の二十五菩薩等と、百重千重、行者を囲繞して、行住座臥、一切時処、もしは昼、もしは夜を問わず、常に行者を離れたまわず。いますでにこの勝益まします、憑むべし。願わくはもろもろの行者、おのおの至心を須いて往くことを求めよ。また『無量寿経』に云うがごとし、「もし我成仏せんに、十方の衆生我が名号を称せん、下十声に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじ」と。かの仏、いま現にましまして成仏したまえり。当に知るべし。本誓重願虚しからず、衆生称念すれば必ず往生を得、と。また『弥陀経』に云うがごとし、「もし衆生ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、すなわち名号を執持すべし。もしは一日、もしは二日、乃至七日、一心に仏を称して乱れざれ、命終わらんとする時、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と、現じてその前にましまさん。この人終わらん時、心顛倒せず、すなわちかの国に往生を得ん。仏、舎利弗に告げたまわく、「我、この利を見るがゆえに、この言を説く。もし衆生ありてこの説を聞かん者は、当に願を発し、かの国に生まれんと願ずべし。」」次下に説きて云わく、「東方如恒河沙等の諸仏、南西北方および上下、一一の方に如恒河沙等の諸仏の、おのおの本国にして、その舌相を出だして、あまねく三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、「汝等衆生、みなこの一切諸仏の護念したまうところの経を信ずべし。」いかんが「護念」と名づくる、と。もし衆生ありて、阿弥陀仏を称念せんこと、もしは七日、一日、下至一声、乃至十声、一念等に及ぶまで、必ず往生を得と。この事を証成せるがゆえに、護念経と名づく。」次下の文に云わく、「もし仏を称して往生する者は、常に六万恒河沙等の諸仏のために護念せらる。かるがゆえに護念経と名づく。」いますでにこの増上の誓願います。憑むべし。もろもろの仏子等、何ぞ意を励まして去かざらんや、と。智昇法師『集諸経礼懴儀』下巻は善導和尚の礼懴なり、これに依る。

44(玄義分)また云わく、弘願と言うは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生まるることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせざるはなきなり、と。

45また云わく、「南無」と言うは、すなわちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」と言うは、すなわちこれ、その行なり。この義をもってのゆえに、必ず往生を得、と。

46(観念法門)また云わく、「摂生増上縁」と言うは、『無量寿経』の四十八願の中に説くがごとし。仏の言わく、「もし我成仏せんに、十方の衆生、我が国に生まれんと願じて我が名字を称すること、下十声に至るまで、我が願力に乗じてもし生まれずは、正覚を取らじ」と。これすなわちこれ、往生を願ずる行人、命終わらんとする時、願力摂して往生を得しむ。かるがゆえに摂生増上縁と名づく。

47また云わく、善悪の凡夫、回心を起行して、ことごとく往生を得しめんと欲す。これまたこれ「証生増上縁」なり、と。已上

48(般舟讃)また云わく、門門不同にして八万四なり。無明と果と業因とを滅せんための利剣は、すなわちこれ弥陀の号なり。一声称念するに、罪みな除こると。微塵の故業と随智と滅す。覚えざるに、真如の門に転入す。娑婆長劫の難を免るることを得ることは、特に知識釈迦の恩を蒙れり。種種の思量巧方便をもって、選びて弥陀弘誓の門を得しめたまえり。已上抄要

49しかれば、「南無」の言は帰命なり。「帰」の言は、至なり、また帰説[よりたのむなり]なり。説の字、悦の音、また帰説[よりかかるなり]なり、説の字は、税の音、悦税二つの音は告ぐるなり、述なり、人の意を宣述るなり。「命」の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。ここをもって、「帰命」は本願招喚の勅命なり。

50「発願回向」と言うは、如来すでに発願して、衆生の行を回施したまうの心なり。51「即是其行」と言うは、すなわち選択本願これなり。52「必得往生」と言うは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」と言えり、『釈』(易行品)には「必定」と云えり。「即」の言は、願力を聞くに由って、報土の真因決定する時剋の極促を光闡せるなり。「必」の言は、審[あきらかなり]なり、然なり、分極なり、金剛心成就の貌なり。

53『浄土五会念仏略法事儀讃』に云わく、それ如来、教を設けたまうに、広・略、根に随う。終に実相に帰せしめんとなり。真の無生を得ん者には、たれかよくこれを与えんや。しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四十八願の名号をもって、ここに仏、願力を事として衆生を度したまう。乃至 54如来常に三昧海の中において、網綿の手を挙げて、父の王に謂いて曰わく、「王いま座禅してただ当に念仏すべし」と。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや。乃至 55それ大なるかな、至理の真法、一如にして物を化し、人を利す。弘誓各別なるがゆえに、我が釈迦、濁世に応生し、阿弥陀、浄土に出現したまう。方は穢・浄両殊なりといえども、利益斉一なり。もし修し易く証し易きは、まことにただ浄土の教門なり。しかるに、かの西方は殊妙にして、その国土は比びがたし。また厳るに百宝の蓮をもってす。九品に敷いてもって人を収むること、それ仏の名号なり、と。乃至

56『称讃浄土経』に依る。釈法照

如来の尊号は、はなはだ分明なり。十方世界にあまねく流行せしむ。

ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。観音勢至自ずから来り迎えたまう。

弥陀の本願特に起殊せり。慈悲方便して凡夫を引く。

一切衆生、みな度脱す。名を称すればすなわち、罪、消除することを得。

凡夫、もし西方に到ることを得れば、曠劫塵沙の罪消亡す。

六神通を具し自在を得。永く老病を除き、無常を離る。

57『仏本行経』に依る。法照

何者をか、これを名づけて正法とする。もし道理に箇らば、これ真宗なり。

好悪いまの時、須らく決択すべし。一一に子細朦朧することなかれ。

正法よく世間を超出す。持戒・座禅を正法と名づく。

念仏成仏はこれ真宗なり。仏言を取らざるをば、外道と名づく。

因果を撥無する見を、空とす。正法よく世間を超出す。

禅律いかんぞこれ正法ならん。念仏三昧これ真宗なり。

性を見、心を了るは、すなわちこれ仏なり。いかんが道理、相応せざらん。略抄

58『阿弥陀経』に依る。

西方は道に進むこと、娑婆に勝れたり。五欲および邪魔なきに縁ってなり。

成仏にもろもろの善業を労しくせず、華台に端座して、弥陀を念じたてまつる。

五濁の修行は多く退転す。念仏して西方に往くにはしかず。

彼に到れば自然に正覚を成る。苦界に還来りて津梁と作らん。

万行の中に急要とす。迅速なること、浄土門に過ぎたるはなし。

ただ本師金口の説のみにあらず。十方諸仏共に伝え証したまう。

この界に一人、仏の名を念ずれば、西方すなわち一つの蓮ありて生ず。

ただし一生常にして不退ならしむれば、一つの華この間に還り到って迎う。 略抄

59『般舟三昧経』に依る。慈愍和尚

今日道場の諸衆等、恒沙曠劫よりすべて経来れり。

この人身を度るに値遇しがたし。たとえば優曇華の始めて開くがごとし。

正しくまれに浄土の教を聞くに値えり。正しく念仏法門開けるに値えり。

正しく弥陀の弘誓の喚いたまうに値えり。正しく大衆の信心あって回するに値えり。

正しく今日、経に依って賛するに値えり。正しく契を上華台に結ぶに値えり。

正しく道場に魔事なきに値えり。正しく無病にしてすべてよく来れるに値えり。

正しく七日の功、成就するに値えり。四十八願、かならず相携う。

あまねく道場の同行の者を勧む、努力回心して、帰去来。

借問、家郷はいずれの処にかある。極楽池の中、七宝の台なり。

かの仏の因中に弘誓を立てたまえり。名を聞きて我を念ぜば、すべて迎え来らしめん。

貧窮とまさに富貴とを簡ばず。下智と高才とを簡ばず。

多聞と浄戒を持てるとを簡ばず。破戒と罪根深きを簡ばず。

ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ。

語を現前の大衆等に寄す。同縁去らん者、早く相尋ねん。

借問、いずれの処を相尋ねてか去かんと。報えて道わく、弥陀浄土の中へ。

借問、何に縁ってか、彼に生まるることを得ん。報えて道わく、念仏自ずから功を成す。

借問、今生の罪障多し、いかんぞ浄土にあえて相容らんや。

報えて道わく、名を称すれば罪消滅す。たとえば明燈の闇中に入るがごとし。

借問、凡夫、生を得やいなや、いかんぞ一念に闇中明らかならんや。

報えて道わく、疑いを除きて多く念仏すれば、弥陀決定して自ずから親近したもうと。 抄要

60『新無量寿観経』に依る。法照

十悪五逆至れる愚人 永劫に沈淪して久塵にあり。

一念弥陀の号を称得して、彼に至れば還りて法性身に同ず、と。已上

61(述文賛)憬興師の云わく、如来の広説に二あり。初めには広く如来浄土の因果、すなわち所行・所成を説きたまえるなり。後には広く衆生往生の因果、すなわち所摂・所益を顕したまえるなり。

62また云わく、『悲華経』の諸菩薩本授記品に云わく、「その時に宝蔵如来、転輪王を讃めて言わく、善きかな、善きかな。乃至 大王、汝西方を見るに、百千万億の仏土を過ぎて世界あり、尊善無垢と名づく。かの界に仏まします、尊音王如来と名づく。乃至 いま現在にもろもろの菩薩のために、正法を説く。乃至 純一大乗清浄にして、雑わることなし。その中の衆生、等一に化生す。また女人およびその名字なし。かの仏世界の所有の功徳、清浄の荘厳なり。ことごとく大王の所願のごとくして、異なけん。乃至 いま汝が字を改めて無量清浄とす」と。已上

『無量寿如来会』に云わく、広くかくのごとき大弘誓願を発して、みなすでに成就したまえり。世間に希有なり。この願を発し已りて、実のごとく安住して種種の功徳具足して、威徳広大清浄仏土を荘厳したまえり、と。已上

63(述文賛)また云わく、福・智の二厳成就したまえるがゆえに、つぶさに等しく衆生に行を施したまえるなり。己が所修をもって衆生を利したまうがゆえに、功徳成ぜしめたまえり、と。

64また云わく、久遠の因に籍りて仏に値い、法を聞きて慶喜すべきがゆえに、と。

65また云わく、人聖く、国妙なり。たれか力を尽くさざらん。善を作して生を願ぜよ。善に因ってすでに成じたまえり。自ずから果を獲ざらんや。かるがゆえに自然と云う。貴賎を簡ばず、みな往生を得しむ。かるがゆえに「著無上下」と云う、と。

66また云わく、「易往而無人 其国不逆違 自然之所牽」と。因を修すればすなわち往く、修することなければ生まるること尠なし。因を修して来生するに、終に違逆せず。すなわち易往なり。

67また云わく、本願力故というは、すなわち往くこと誓願の力なり。満足願故というは、願として欠くることなきがゆえに。明了願故というは、これを求むるに虚しからざるがゆえに。堅固願故というは、縁として壊ることあたわざるがゆえに。究竟願故というは、必ず果し遂ぐるがゆえに。

68また云わく、総じてこれを言わば、凡小をして欲往生の意を増さしめんと欲うがゆえに、須らくかの土の勝ることを顕すべし、と。

69また云わく、すでにこの土にして菩薩の行を修すと言えり。すなわち知りぬ、無諍王この方にましますことを。宝海もまたしかなり、と。

70また云わく、仏の威徳広大を聞くがゆえに、不退転を得るなり、と。已上

71『楽邦文類』に云わく、総官の張掄云わく、「仏号はなはだ持ち易し、浄土ははなはだ往き易し。八万四千の法門、この捷径にしくなし。ただよく清晨俛仰の暇を輟めて、ついに永劫不壊の資をなすべし。これすなわち、力を用うることは、はなはなだ微にして、功を収むることいまし尽くることあることなけん。衆生また何の苦しみあればか、自ら棄ててせざらんや。ああ夢幻にして真にあらず、寿夭にして保ちがたし。呼吸の頃に、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いつれば、万劫にも復せず。この時悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまわん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれと。浄楽の居士張掄、縁を勧む、と。已上

72台教の祖師山陰慶文法師 の云わく、まことに仏名は真応の身よりして建立せるがゆえに、慈悲海よりして建立せるがゆえに、誓願海よりして建立せるがゆえに、智慧海よりして建立せるがゆえに、法門海よりして建立せるに由るがゆえに、もしただ専ら一仏の名号を称するは、すなわちこれつぶさに諸仏の名号を称するなり。功徳無量なれば、よく罪障を滅す。よく浄土に生ず。何ぞ必ず疑いを生ぜんやと。已上

73(観経義疏)律宗の祖師元照の云わく、いわんや我が仏の大慈、浄土を開示して慇懃にあまねくもろもろの大乗を勧嘱したまえり。目に見、耳に聞きて、特に疑謗を生じて、自ら甘く沈溺して超昇を慕わず、如来説きて憐憫すべき者のためにしたまえり。まことに、この法のひとり常途に異なることを知らざるに由ってなり。賢愚を択ばず、緇素を簡ばず、修行の久近を論ぜず、造罪の重軽を問わず、ただ、決定の信心すなわちこれ往生の因種ならしむ、と。已上

74また云わく、今、浄土の諸経に並びに魔を言わず。すなわち知りぬ、この法に魔なきこと明らけしと。山陰の慶文法師の正信法門にこれを弁ずること、はなはだ詳らかなり。今ためにつぶさにかの問を引きて、曰わく、「あるいは人ありて云わく、臨終に仏・菩薩の光を放ち、台を持したまえるを見たてまつり、天楽異香来迎往生す。並びにこれ魔事なり、と。この説、いかんぞや。答えて曰わく、『首楞厳』に依って三昧を修習することあり。あるいは陰魔を発動す。『摩訶衍論』(大乗起信論)に依って三昧を修習することあり、あるいは外魔天魔を謂うなりを発動す。『止観論』に依って三昧を修習することあり、あるいは時魅を発動す。これ等、ならびにこれ、禅定を修する人、その自力に約してまず魔種あり、定んで撃発を被るがゆえにこの事を現ず。もしよく明らかに識りておのおの対治を用いれば、すなわちよく除遣せしめん。もし聖の解を作せば、みな魔障を被るなりと。上にこの方の入道を明かす、すなわち魔事を発す。今、所修の念仏三昧に約するに、いまし仏力を憑む。帝王に近づけば、あえて犯すものなきがごとし。けだし阿弥陀仏、大慈悲力・大誓願力・大智慧力・大三昧力・大威神力・大摧邪力・大降魔力・天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力・光明遍照摂取衆生力ましますに由ってなり。かくのごとき等の不可思議功徳の力まします。あに念仏の人を護持して、臨終の時に至るまで障碍なからしむることあたわざらんや。もし護持をなさずは、すなわち慈悲力なんぞましまさん。もし魔障を除くことあたわずは、智慧力・三昧力・威神力・摧邪力・降魔力、またなんぞましまさんや。もし鑑察することあたわずして、魔、障をなすことを被らば、天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力、またなんぞましまさんや。『経』(観経)に云わく、「阿弥陀仏の相好の光明、あまねく十方世界を照らす。念仏の衆生をば摂取して捨てたまわず」と。もし念仏して臨終に魔障を被ると謂わば、光明遍照摂取衆生力、またなんぞましまさんや。いわんや念仏の人の臨終の感相、衆経より出でたり。みなこれ仏の言なり。なんぞ貶して魔境とすることを得んや。今ために邪疑を決破す。当に正信を生ずべし」と。已上かの文

75また云わく元照律師『弥陀経義』の文、一乗の極唱、終帰をことごとく楽邦を指す。万行の円修、最勝を独り果号に推る。まことにもって因より願を建つ。志を秉り行を窮め、塵点劫を歴て済衆の仁を懐けり。芥子の地も捨身の処にあらざることなし。悲智六度、摂化して、もって遺すことなし。内外の両財、求むるに随うて必ず応ず。機と縁と熟し、行満じ功成り、一時に円かに三身を証す。万徳すべて四字に彰る、と。已上

76また云わく、いわんや我が弥陀は名をもって物を接したまう。ここをもって耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて、頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。信に知りぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり、と。已上

77また云わく、正念の中に、凡人の臨終は識神、主なし。善悪の業種、発現せざることなし。あるいは悪念を起こし、あるいは邪見を起こし、あるいは繫恋を生じ、あるいは猖狂悪相を発せん。もっぱらみな、顛倒の因と名づくるにあらずや。前に仏を誦して、罪滅し、障除こり、浄業内に熏じ、慈光外に摂して、苦を脱れ楽を得ること、一刹那の間なり。下の文に生を勧む、その利、ここにあり、と。已上

78(観経義疏)慈雲法師の云わく、ただ安養の浄業、捷真なり。修すべし。もし四衆ありて、また速やかに無明を破し、永く五逆・十悪重軽等の罪を滅せんと欲わば、当にこの法を修すべし。大小の戒体、遠くまた清浄なることを得しめ、念仏三昧を得しめ、菩薩の諸波羅蜜を成就せんと欲わば、当にこの法を学すべし。臨終にもろもろの怖畏を離れしめ、身心安快にして衆聖現前し、授手接引せらるることを得、初めて塵労を離れてすなわち不退に至り、長劫を歴ず、すなわち無生を得んと欲わば、当にこの法等を学すべし。古賢の法語によく従うことなからんや。已上五門、綱要を略標す。自余は尽くさず、くわしく釈文にあり。『開元の蔵録』(開元釈教録)を案ずるに、この経おおよそ両訳あり。前本はすでに亡じぬ。いまの本はすなわち畺良耶舎の訳なり。『僧伝』(梁高僧伝)に云わく、畺良耶舎ここには時称と云う。宋の元嘉の初めに京邑に建めたり。文帝のとき。

79慈雲の讃に云わく、了義の中の了義なり。円頓の中の円頓なり、と。已上

 大智唱えて云わく、円頓一乗なり。純一にして雑なし、と。已上

80(正観記)律宗の戒度の云わく、仏名はすなわちこれ、劫を積んで薫修し、その万徳を攬る、すべて四字に彰る。このゆえに、これを称するに益を獲ること、浅きにあらず、と。已上

81律宗の用欽の云わく、今もし我が心口をもって、一仏の嘉号を称念すれば、すなわち因より果に至るまで、無量の功徳具足せざることなし、と。已上

また云わく、一切諸仏、微塵劫を歴て実相を了悟して、一切を得ざるがゆえに、無相の大願を発して、修するに妙行に住することなし。証するに菩提を得ることなし。住するに国土を荘厳するにあらず。現ずるに神通の神通なきがゆえに、舌相を大千に遍くして、無説の説を示す。かるがゆえにこの経を勧信せしむ。あに心に思い、口に議るべけんや。私に謂わく、諸仏の不思議の功徳、須臾に弥陀の二報荘厳に収む。持名の行法は、かの諸仏の中に、また須らく弥陀を収むべきなり、と。已上

82(観経義疏)三論の祖師、嘉祥の云わく、問う、念仏三昧は何に因ってか、よくかくのごとき多罪を滅することを得るや、と。解して云わく、仏に無量の功徳います。仏の無量の功徳を念ずるがゆえに、無量の罪を滅することを得しむ、と。已上

83(大経義疏)法相の祖師、法位の云わく、諸仏はみな、徳を名に施す、名を称するは、すなわち徳を称するなり。徳、よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること、決定して疑いなし。称名往生、これ何の惑いかあらんや、と。已上

84禅宗の飛錫の云わく、念仏三昧の善、これ最上なり。万行の元首なるがゆえに、三昧王と曰う、と。已上

85『往生要集』に云わく、『双巻経』(大経)の三輩の業、浅深ありといえども、しかるに通じてみな「一向専念無量寿仏」と云えり。三つに、四十八願の中に念仏門において、別して一つの願を発して云わく、「乃至十念若不生者不取正覚」と。四つに、『観経』には、「極重の悪人、他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生まるることを得」と。已上

86また云わく、『心地観経』の六種の功徳に依るべし。一つには無上大功徳田、二つには無上大恩徳、三つのは無足二足および多足衆生の中の尊なり。四つには、極めて値遇しがたきこと、優曇華のごとし。五つには、独り三千大千世界に出でたまう。六つには、世・出世間の功徳円満せり。義、つぶさにかくのごとき等の六種の功徳に依る。常によく一切衆生を利益したまう、と。已上

87この六種の功徳に依って、信和尚の云わく、一つには念ずべし、一称南無仏皆已成仏道のゆえに、我無上功徳田を帰命し礼したてまつる。二つには念ずべし、慈眼をもって衆生を視そなわすこと、平等にして一子のごとし。かるがゆえに、我、極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。三つには念ずべし、十方の諸大士、弥陀尊を恭敬したてまつるがゆえに、我、無上両足尊を帰命し礼したてまつる。四つには念ずべし、ひとたび仏名を聞くことを得ること、優曇華よりも過ぎたり。かるがゆえに我、極難値遇者を帰命し礼したてまつる。五つには念ずべし。一百倶胝界には二尊、並んで出でたまわず。かるがゆえに我、希有大法王を帰命し礼したてまつる。六つには念ずべし。仏法衆徳海は三世同じく一体なり。かるがゆえに我、円融万徳尊を帰命し礼したてまつる、と。已上

88また云わく、波利質多樹の華、一日衣に薫ずるに、瞻蔔華・波師迦華、千歳薫ずといえども、及ぶことあたわざるところなり。已上

89また云わく、一斤の石汁、よく千斤の銅を変じて金となす。雪山に草あり、名づけて忍辱とす。牛、もし食すればすなわち醍醐を得。尸利沙、昴星を見ればすなわち菓実を出すがごとし。已上

90『選択本願念仏集』源空集に云わく、南無阿弥陀仏往生の業は念仏を本とす、と。

91また云わく、それ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、選びて正定を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生まるることを得、仏の本願に依るがゆえに、と。已上

92明らかに知りぬ、これ凡聖自力の行にあらず。かるがゆえに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して、念仏成仏すべし。

93ここをもって『論註』に曰わく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆえに」とのたまえり。已上

94しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆえに、これを「歓喜地」と名づく。これを初果に喩うることは、初果の聖者、なお睡眠し懶堕なれども、二十九有に至らず。いかにいわんや、十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。かるがゆえに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力と曰う。

95ここをもって龍樹大士は「即時入必定」(易行品)と曰えり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註)と云えり。仰いでこれを憑むべし。専らこれを行ずべきなり。

96良に知りぬ。徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁、和合すべしといえども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。97かるがゆえに宗師は、「光明名号をもって十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむ」(礼讃)と言えり。また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)と云えり。また「真宗遇いがたし」(散善義)と云えるをや、知るべし、と。

98おおよそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり、また信に一念あり。行の一念と言うは、いわく称名の遍数について、選択易行の至極を顕開す。

99かるがゆえに『大本』(大経)に言わく、仏、弥勒に語りたまわく、「それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。当に知るべし、この人は大利を得とす。すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」と。已上

100光明寺の和尚は「下至一念」(散善義)と云えり。また「一声一念」(礼讃)と云えり。また「専心専念」(散善義)と云えり、と。已上 智昇師の『集諸経礼懴儀』の下巻に云わく、深心は、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。かるがゆえに深心と名づく、と。已上

101『経』に「乃至」と言い、『釈』に「下至」と曰えり。「乃」「下」その言異なりといえども、その意、これ一なり。また「乃至」とは、一多包容の言なり。102「大利」と言うは、小利に対せるの言なり。「無上」と言うは、有上に対せるの言なり。信に知りぬ。大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなわちこれ八万四千の仮門なり。103『釈』(散善義)に「専心」と云えるは、すなわち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」と云えるは、すなわち一行なり、二行なきことを形すなり。104いま弥勒付嘱の一念はすなわちこれ一声なり、一声すなわちこれ一念なり、一念すなわちこれ一行なり、一行すなわちこれ正行なり、正行すなわちこれ正業なり、正業すなわちこれ正念なり、正念すなわちこれ念仏なり、すなわちこれ南無阿弥陀仏なり。

105しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵うなり。知るべし、と。

106『安楽集』に云わく、十念相続とは、これ聖者の一つの数の名ならくのみ。すなわちよく念を積み思いを凝らして他事を縁ぜざれば、業道成弁せしめてすなわち罷みぬ。また労しくこれを頭数を記せざれとなり。

また云わく、もし久行の人の念は、多くこれに依るべし。もし始行の人の念は、数を記する、また好し。これまた聖教に依るなり、と。已上

107これすなわち真実の行を顕す明証なり。誠に知りぬ。選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり。知るべしと。

108他力と言うは、如来の本願力なり。

109『論』(論註)に曰わく、「本願力」と言うは、大菩薩、法身の中にして常に三昧にましまして、種種の身・種種の神通・種種の説法を現じたまうことを示す。みな本願力より起こるをもってなり。たとえば阿修羅の琴の鼓する者なしといえども、音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳相と名づく。乃至

110「菩薩は四種の門に入りて、自利の行成就したまえりと、知るべし。」「成就」は、いわく自利満足せるなり。「応知」というは、いわく、自利に由るがゆえにすなわちよく利他す。これ自利にあたわずしてよく利他するにはあらざるなり、と知るべし。

「菩薩は第五門に出でて、回向利益他の行成就したまえりと、知るべし。」「成就」は、いわく回向の因をもって教化地の果を証す。もしは因、もしは果、一事として利他にあたわざることあることなきなり。「応知」は、いわく、利他に由るがゆえにすなわちよく自利す、これ利他にあたわずしてよく自利するにはあらざるなり、と知るべし。

「菩薩はかくのごとき五門の行を修して、自利利他して、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまえるがゆえに。」仏の所得の法を名づけて阿耨多羅三藐三菩提とす。この菩提を得るをもってのゆえに、名づけて仏とす。いま速得阿耨多羅三藐三菩提と言えるは、これ早く仏に作ることを得たまえるなり。「阿」をば無に名づく。「耨多羅」をば上に名づく。「三藐」をば正に名づく。「三」をば遍に名づく。「菩提」をば道に名づく。統ねてこれを訳して、名づけて「無上正遍道」とす。「無上」は、言うこころは、この道、理を窮め性を尽くすこと、更に過ぎたる者なし。何をもってかこれを言わば、正をもってのゆえに。「正」は聖智なり。法相のごとくして知るがゆえに、称して正智とす。法性は相なきゆえに、聖智は無知なり。「遍」に二種あり。一つには、聖心遍く一切の法を知ろしめす。二つには、法身遍く法界に満てり。もしは身、もしは心、遍ぜざることなきなり。「道」は無碍道なり。『経』(華厳経)に言わく、「十方無碍人、一道より生死を出でたまえり。」「一道」は一無碍道なり。「無碍」は、いわく、生死すなわちこれ涅槃なりと知るなり。かくのごとき等の入不二の法門は無碍の相なり。

111問うて曰わく、何の因縁ありてか「速得成就阿耨多羅三藐三菩提」と言えるや。答えて曰わく、『論』に「五門の行を修して、もって自利利他成就したまえるがゆえに」と言えり。しかるに、覈にその本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と、談ずるに左右あり。もしおのずから仏をして言わば、宜しく利他と言うべし。おのずから衆生をして言わば、宜しく他利と言うべし。いま将に仏力を談ぜんとす、このゆえに利他をもってこれを言う。当に知るべし、この意なり。おおよそこれ、かの浄土に生まるると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行は、みな阿弥陀如来の本願力に縁るがゆえに。何をもってこれを言わば、もし仏力にあらずは、四十八願すなわちこれ徒らに設けたまえらん。いま的しく三願を取りて、もって義の意を証せん。

願に言わく、「設い我仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。仏願力に縁るがゆえに、十念念仏してすなわち往生を得。往生を得るがゆえに、すなわち三界輪転の事を勉る。輪転なきがゆえに、このゆえに速やかなることを得る、一つの証なり。

願に言わく、「設い我仏を得たらんに、国の中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずは、正覚を取らじ」と。仏願力に縁るがゆえに、正定聚に住せん。正定聚に住せるがゆえに、必ず滅度に至らん。もろもろの回伏の難なし、このゆえに速やかなることを得る、二つの証なり。

願に言わく、「設い我仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らしめん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱して、諸仏の国に遊び、菩薩の行を修して、十方諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行を現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじ」と。仏願力に縁るがゆえに、常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。常倫に超出し諸地の行現前するをもってのゆえに、このゆえに速やかなることを得る、三つの証なり。これをもって他力を推するに増上縁とす、しからざることを得んや。

当にまた例を引きて、自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるがゆえに、禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆえに、よく禅定を修す。禅定を修するをもってのゆえに、神通を修習す。神通をもってのゆえに、よく四天下に遊ぶがごとし。かくのごとき等を名づけて自力とす。また、劣夫の、驢に跨りて上らざれども、転輪王の行くに従えば、すなわち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍するところなきがごとし。かくのごとき等を名づけて他力とす。愚かなるかな、後の学者、他力の乗ずべきを聞きて、当に信心を生ずべし。自ら局分することなかれ、となり。已上

112(観経義疏)元照律師の云わく、あるいはこの方にして惑を破し真を証すれば、すなわち自力を運ぶがゆえに、大小の諸経に談ず。あるいは他方に往きて法を聞き道を悟るは、須らく他力を憑むべきがゆえに、往生浄土を説く。彼・此異なりといえども、方便にあらざることなし、自心を悟らしめんとなり、と。已上

113「一乗海」と言うは、「一乗」は大乗なり。大乗は仏乗なり。一乗を得るは、阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。阿耨菩提はすなわちこれ涅槃界なり。涅槃界はすなわちこれ究竟法身なり。究竟法身を得るは、すなわち一乗を究竟するなり。如来に異なることましまさず、法身に異なることましまさず。如来はすなわち法身なり。一乗を究竟するは、すなわちこれ無辺不断なり。大乗は、二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は、一乗に入らしめんとなり。一乗はすなわち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。

114『涅槃経』(聖行品)に言わく、善男子、実諦は名づけて大乗と曰う。大乗にあらざるは実諦と名づけず。善男子、実諦はこれ仏の所説なり、魔の所説にあらず。もしこれ魔説は仏説にあらざれば、実諦と名づけず。善男子、実諦は一道清浄にして、二あることなきなり。已上

115(徳王品)また言わく、いかんが菩薩、一実に信順する。菩薩は、一切衆生をしてみな一道に帰せしむと了知するなり。一道はいわく大乗なり。諸仏・菩薩、衆生のためのゆえに分かちて三とす。このゆえに菩薩、不逆に信順す、と。已上

116(師子吼品)また言わく、善男子、「畢竟」に二種あり。一つには荘厳畢竟、二つには究竟畢竟なり。一つには世間畢竟、二つには出世畢竟なり。荘厳畢竟は六波羅蜜なり。究竟畢竟は一切衆生得るところの一乗なり。一乗は名づけて仏性とす。この義をもってのゆえに、我「一切衆生悉有仏性」と説くなり。一切衆生ことごとく一乗あり。無明覆えるをもってのゆえに、見ることを得ることあたわず、と。已上

117また言わく、いかんが一とする、一切衆生ことごとく一乗なるがゆえに。いかんが非一なる、三乗を説くがゆえに。いかんが非一・非非一なる、無数の法なるがゆえなり、と。已上

118『華厳経』に言わく、文珠の法は常にしかなり。法王はただ一法なり。一切無碍人、一道より生死を出でたまえり。一切諸仏の身、ただこれ一法身なり。一心・一智慧なり。力・無畏もまたしかなり、と。已上

119しかれば、これ等の覚悟は、みなもって安養浄刹の大利、仏願難思の至徳なり。

120「海」と言うは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水と成る、これを海のごときに喩うるなり。良に知りぬ、経に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」と言えるがごとし。已上

願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。いかにいわんや、人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。

121かるがゆえに『大本』(大経)に言わく、声聞あるいは菩薩、よく聖心を究むることなし。たとえば生まれてより盲たるものの、行いて人を開導せんと欲わんがごとし。如来の智慧海は深広にして涯底なし。二乗の測るところにあらず、ただ仏のみ、独り明らかに了りたまえり、と。已上

122『浄土論』に曰わく、「何者か荘厳不虚作住持功徳成就、偈に、仏の本願力を観ずるに、遇うてむなしく過ぐる者なし、よく速やかに功徳の大宝海を満足せしむがゆえにと言えり。」不虚作住持功徳成就は、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。今まさに略して、虚作の相の住持にあたわざるを示して、もってかの不虚作住持の義を顕す。乃至 言うところの不虚作住持は、本法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力とに依る。願もって力を成ず、力もって願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力・願相符うて畢竟じて差わず。かるがゆえに成就と曰う。

123また曰わく、「海」とは、言うこころは、仏の一切種智、深広にして涯なし、二乗雑善の中下の屍骸を宿さず、これを海のごとしと喩う。このゆえに「天人不動衆 清浄智海生」と言えり。「不動」とは、言うこころは、かの天人、大乗根を成就して傾動すべからざるなり、と。已上

124(玄義分)光明師の云わく、我菩薩蔵、頓教と一乗海とに依る。

125(般舟讃)また云わく、『瓔珞経』の中には漸教を説けり。万劫、功を修して不退を証す。『観経』・『弥陀経』等の説は、すなわちこれ頓教なり、菩提蔵なり、と。已上

126『楽邦文類』に云わく、宗釈禅師(宗暁)の云わく、「睘丹の一粒は鉄を変じて金と成す。真理の一言は悪業を転じて善業と成す」と。已上

127しかるに教について、念仏・諸善、比校対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、俓迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付嘱不嘱対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。この義かくのごとし。128しかるに本願一乗海を案ずるに、円融、満足、極促、無碍、絶対不二の教なり。

129また機について対論するに、信疑対、善悪対、正邪対、是非対、実虚対、真偽対、浄穢対、利鈍対、奢促対、豪賎対、明闇対あり。この義かくのごとし。130しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり。知るべし。

131敬いて一切往生人等に白さく、弘誓一乗海は、無碍、無辺、最勝、深妙、不可説、不可称、不可思議の至徳を成就したまえり。何をもってのゆえに、誓願不可思議なるがゆえに。132悲願は、たとえば、太虚空のごとし、もろもろの妙功徳広無辺なるがゆえに。なお大車のごとし、あまねくよくもろもろの凡聖を運載するがゆえに。なお妙蓮華のごとし、一切世間の法に染せられざるがゆえに。善見薬王のごとし、よく一切煩悩の病を破するがゆえに。なお利剣のごとし、よく一切驕慢の鎧を断つがゆえに。勇将幢のごとし、よく一切諸魔軍を伏するがゆえに。なお利鋸のごとし、よく一切無明の樹を截るがゆえに。なお利斧のごとし、よく一切諸苦の枝を伐るがゆえに。善知識のごとし、一切生死の縛を解くがゆえに。なお導師のごとし、善く凡夫出要の道を知らしむるがゆえに。なお涌泉のごとし、智慧の水を出だして窮尽なきがゆえに。なお蓮華のごとし、一切もろもろの罪垢に染せられざるがゆえに。なお疾風のごとし、善く一切諸障の霧を散ずるがゆえに。なお好蜜のごとし、一切功徳の味を円満せるがゆえに。なお正道のごとし、もろもろの群生をして智城に入らしむるがゆえに。なお磁石のごとし、本願の因を吸うがゆえに。閻浮檀金のごとし、一切有為の善を映奪するがゆえに。なお伏蔵のごとし、よく一切諸仏の法を摂するがゆえに。なお大地のごとし。三世十方一切如来出生するがゆえに。日輪の光のごとし、一切凡愚の痴闇を破して信楽を出生するがゆえに。なお君王のごとし、一切上乗人に勝出せるがゆえに。なお厳父のごとし、一切もろもろの凡聖を訓導するがゆえに。なお悲母のごとし、一切凡聖の報土真実の因を長生するがゆえに。なお乳母のごとし、一切善悪の往生人を養育し守護したまうがゆえに。なお大地のごとし、よく一切の往生を持つがゆえに。なお大水のごとし、よく一切煩悩の垢を滌ぐがゆえに。なお大火のごとし、よく一切諸見の薪を焼くがゆえに。なお大風のごとし、あまねく世間に行ぜしめて碍うるところなきがゆえに。133よく三有繫縛の城を出で、よく二十五有の門を閉ず。よく真実報土を得しめ、よく邪正の道路を弁ず。よく愚痴海を竭かして、よく願海に流入せしむ。一切智船に乗ぜしめて、もろもろの群生海に浮かぶ。福智蔵を円満し、方便蔵を開顕せしむ。良に奉持すべし、特に頂戴すべきなり。

134おおよそ誓願について、真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行願は、諸仏称名の願なり。その真実の信願は、至心信楽の願なり。これすなわち選択本願の行信なり。その機は、すなわち一切善悪大小凡愚なり。往生は、すなわち難思議往生なり。仏土は、すなわち報仏報土なり。これすなわち誓願不可思議、一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

135ここをもって知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈を披きたるに言わく、

それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静己にあらず、出没必ず由あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理宜しくまず啓すべし。また所願軽からず、もし如来、威神を加したまわずは将に何をもってか達せんとする。神力を乞加す、このゆえに仰いで告ぐ、と。已上

しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を作りて曰わく、

136無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。

137法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、

諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、

無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。

五劫、これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。

あまねく、無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、

清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、

超日月光を放って、塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る。

本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。

等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり。

138如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり。

五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。

よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、衆水、海に入りて一味なるがごとし。

摂取の心光、常に照護したまう。すでによく無明の闇を破すといえども、

貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。

たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。

信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん、すなわち横に五悪趣を超截す。

一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、

仏、広大勝解の者と言えり。この人を分陀利華と名づく。

139弥陀仏の本願念仏は、邪見憍慢の悪衆生、

信楽受持すること、はなはだもって難し。難の中の難、これに過ぎたるはなし。

140印度・西天の論家、中夏・日域の高僧、

大聖興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす。

141釈迦如来、楞伽山にして、衆のために告命したまわく、

南天竺に、龍樹大士世に出でて、ことごとく、よく有無の見を摧破せん。

大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん、と。

難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。

弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時、必定に入る。

ただよく、常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし、といえり。

142天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。

修多羅に依って真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。

広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために、一心を彰す。

功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲。

蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむと。

煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す、といえり。

143本師、曇鸞は、梁の天子常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる。

三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき。

天親菩薩の『論』、註解して、報土の因果、誓願に顕す。

往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。

惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。

必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生、みなあまねく化すといえり。

144道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。

万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。

三不三信の誨、慇懃にして、像末法滅、同じく悲引す。

一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果果を証せしむと、いえり。

145善導独り、仏の正意を明かせり。定散と逆悪とを矜哀して、

光明名号、因縁を顕す。本願の大智海に開入すれば、

行者、正しく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応して後、

韋提と等しく三忍を獲、すなわち法性の常楽を証せしむ、といえり。

146源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して、一切を勧む。

専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり。

極重の悪人は、ただ仏を称すべし。我また、かの摂取の中にあれども、

煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、

大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。

147本師・源空は、仏教に明らかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。

真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。

生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。

速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり。

148弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまう。

道俗時衆、共に同心に、ただこの高僧の説を信ずべし、と。

六十行、すでに畢りぬ。一百二十句なり。

六十行已畢 一百二十句

顕浄土真実行文類二

 

顕浄土真実信文類三

復有一臣名悉知義 昔者有王名曰羅摩害其父得紹王位

跋提大王毘楼真王 那睺沙王 迦帝迦王

毗舎佉王 月光明王 日光明王 愛王

持多人王 如是等王皆害其父得紹王位然無

一王入地獄者於今現在毘瑠璃王 優陀邪王

悪性王 鼠王 蓮華王 如是等王皆

害其父悉無一王生愁悩者 文

 

顕浄土真実信文類序

愚禿釈親鸞集

1それ以みれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。

2しかるに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。3ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、特に一心の華文を開く。しばらく疑問を至してついに明証を出だす。誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず。4浄邦を欣う徒衆、穢域を厭う庶類、取捨を加うといえども、疑謗を生ずることなかれ、と。

至心信楽の願 正定聚の機

 

顕浄土真実信文類三

愚禿釈親鸞集

1謹んで往相の回向を案ずるに、大信有り。

2大信心はすなわちこれ、長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。

3この心すなわちこれ念仏往生の願より出でたり。この大願を選択本願と名づく。また本願三心の願と名づく。また至心信楽の願と名づく。また往相信心の願と名づくべきなり。

4しかるに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽実に獲ること難し。何をもってのゆえに。いまし如来の加威力に由るがゆえなり。博く大悲広慧の力に因るがゆえなり。

5たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもって極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。

6至心信楽の本願の文、

『大経』に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれざれば正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法とを除く、と。已上

7『無量寿如来会』に言わく、もし我無上覚を証得せん時、余仏の刹の中のもろもろの有情類、我が名を聞き已りて、所有の善根心心に回向せしむ。我が国に生まれんと願じて、乃至十念せん。もし生まれずは菩提を取らじと。ただ無間悪業を造り、正法およびもろもろの聖人を誹謗せんをば除く、と。已上

8本願成就の文、『経』(大経)に言わく、諸有衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く、と。已上

9『無量寿如来会』に言わく、他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまえるを愛楽して、無量寿国に生まれんと願ぜば、願に随いてみな生まれ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間・誹謗正法および謗聖者を除く、と。已上

10(大経)また言わく、法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶ばば、すなわち我が善き親友なり。このゆえに当に意を発すべし、と。已上

11(如来会)また言わく、かくのごときらの類は、大威徳の者なり。よく広大仏法異門に生ぜんと。已上

12また言わく、如来の功徳は仏のみ自ら知ろしめせり。ただ世尊ましましてよく開示したまう。天・龍・夜叉及ばざるところなり。二乗自ずから名言を絶つ。もしもろもろの有情まさに作仏して、行普賢に超え彼岸に登って、一仏の功徳を敷衍せん時、多劫の不思議を逾えん。この中間において身は滅度すとも、仏の勝慧はよく量ることなけん。このゆえに信聞およびもろもろの善友の摂受を具足して、かくのごときの深妙の法を聞くことを得ば、当にもろもろの聖尊に重愛せらるることを獲べし。如来の勝智、遍虚空の所説義言は、ただ仏のみ悟りたまえり。このゆえに博く諸智土を聞きて、我が教如実の言を信ずべし。人趣の身得ることははなはだ難し、如来の出世遇うことまた難し、信慧多き時方にいまし獲ん。このゆえに修せん者、精進すべし。かくのごときの妙法すでに聴聞せば、常に諸仏をして喜びを生ぜしめたてまつるなりと。抄出

13『論の註』に曰わく、「かの如来の名を称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲うがゆえに」といえりと。「称彼如来名」とは、いわく無碍光如来の名を称するなり。「如彼如来光明智相」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く。日月珠光のただ室穴の中の闇を破するがごときにはあらざるなり。14「如彼名義欲如実修行相応」とは、かの無碍光如来の名号よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまう、しかるに称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかんとならば、実のごとく修行せざると、名義と相応せざるに由るがゆえなり。いかんが不如実修行と名義不相応とする。いわく如来はこれ実相の身なり、これ物の為の身なりと知らざるなり。15また三種の不相応あり。一つは信心淳からず、存せるがごとし、亡せるがごときのゆえに。二つには信心一ならず、決定なきがゆえに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆえに。この三句展転して相成ず。信心淳からざるをもってのゆえに決定なし、決定なきがゆえに念相続せず、また念相続せざるがゆえに決定の信を得ず、決定の信を得ざるがゆえ心淳からざるべし。これと相違せるを「如実修行相応」と名づく。このゆえに論主建めに「我一心」と言えり、と。已上

16『讃阿弥陀仏偈』に曰わく、曇鸞和尚造なり あらゆるもの阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念におよぶまでせん。至心の者回向したまえり。生まれんと願ずれば、みな往くことを得しむ。ただ五逆と謗正法とをば除く。かるがゆえに我頂礼して往生を願ず、と。已上

17光明寺の『観経義』(定善義)に云わく、「如意」と言うは二種あり。一つには衆生の意のごとし、かの心念に随いてみなこれを度すべし。二つには弥陀の意のごとし、五眼円かに照らし六通自在にして、機の度すべき者を観そなわして、一念の中に前なく後なく、身心等しく赴き、三輪開悟して、おのおの益すること同じからざるなり、と。已上

18(序分義)また云わく、この五濁・五苦等は、六道に通じて受けて、未だ無き者はあらず、常にこれに逼悩す。もしこの苦を受けざる者は、すなわち凡数の摂にあらざるなり、と。抄出

19(散善義)また云わく、「何等為三」より下「必生彼国」に至るまで已来は、正しく三心を弁定してもって正因とすることを明かす。すなわちそれ二つあり。一つには、世尊機に随いて益を顕すこと、意密にして知り難し、仏自ら問いて自ら徴したまうにあらずは、解を得るに由なきを明かす。二つには、如来還りて自ら前の三心の数を答えたまうことを明かす。20『経』に云わく、「一者至誠心」。「至」は真なり。「誠」は実なり。一切衆生の身・口・意業の所修の解行、必ず真実心の中に作したまえるを須いることを明かさんと欲う。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。乃至 不善の三業は、必ず真実心の中に捨てたまえるを須いよ。またもし善の三業を起こさば、必ず真実心の中に作したまいしを須いて、内外・明闇を簡ばず、みな真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく。21「二者深心」。「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。また決定して深く、「釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむ」と信ず。また決定して、「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生まるることを得」と深信するなり。また深信する者、仰ぎ願わくは、一切行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行に依って、仏の捨てたまうをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまうをばすなわち行ず。仏の去てしめたまう処をばすなわち去つ。これを「仏教に随順し、仏意に随順す」と名づく。これを「仏願に随順す」と名づく。これを「真の仏弟子」と名づく。また一切の行者、ただよくこの経に依って行を深信する者は、必ず衆生を誤らざるものなり。何をもってのゆえに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆえに、実語なるがゆえに、仏を除きて已還は、智行未だ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありて、未だ除からざるに由って、果願未だ円ならず。これらの凡聖は、たとい諸仏の教意を測量すれども、未だよく決了することあたわず。平章ありといえども、かならず須らく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称えば、すなわち印可して「如是如是」と言う。もし仏意に可わざれば、すなわち「汝等が所説この義不如是」と言う。印せざるは、すなわち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまうをば、すなわち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなわちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多・もしは少、すべて菩薩・人・天等を問わず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなわちこれ「了教」なり、菩薩等の説は、ことごとく「不了教」と名づくるなり、知るべしと。このゆえに、今の時、仰ぎて一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし、菩薩等の不相応の教を信用してもって疑碍を為し、惑を抱いて自ら迷いて、往生の大益を廃失すべからざれとなり。乃至 釈迦、一切の凡夫を指勧して、この一身を尽くして専念専修して、捨命已後定んでかの国に生まるれば、すなわち十方諸仏、ことごとくみな同じく讃め同じく勧め同じく証したまう。何をもってのゆえに、同体の大悲なるがゆえに。一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり、一切仏の化はすなわちこれ一仏の所化なり。すなわち『弥陀経』の中に説かく、「釈迦、極楽の種種の荘厳を讃嘆したまう。」また「一切の凡夫を勧めて、一日・七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、定んで往生を得しめたまう」と。次下の文に云わく、「十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく、釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪無信の盛なる時において、弥陀の名号を指讃して、衆生を勧励せしめて、称念すれば必ず往生を得、と讃じたまう」、すなわちその証なり。また十方仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんを恐畏れて、すなわち共に同心・同時に、おのおの舌相を出だして遍く三千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、汝等衆生、みなこの釈迦の所説・所賛・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少・時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、定んで往生を得ること、必ず疑いなきなり。このゆえに、一仏の所説をば、すなわち一切仏同じくその事を証誠したまうなり。これを「人に就いて信を立つ」と名づくるなり。乃至 またこの正の中について、また二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問わず、念念に捨てざるをば、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。もし礼誦等に依らば、すなわち名づけて「助業」とす。この正助二行を除きて已下の自余のもろもろの善は、ことごとく「雑行」と名づく、と。乃至 すべて「疎雑の行」と名づくるなり。かるがゆえに「深心」と名づく。22「三者回向発願心」乃至 また回向発願して生ずる者は、必ず決定して真実心の中に回向したまえる願を須いて得生の想を作せ。この心深信せること、金剛のごとくなるに由りて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために、動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉って正直に進みて、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなわち進退の心ありて、怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなわち往生の大益を失するなり。問いて曰わく、もし解行不同の邪雑の人等ありて、来たりて相惑乱して、あるいは種種の疑難を説きて「往生を得じ」と道い、あるいは云わん、「汝等衆生、曠劫より已来、および今生の身・口・意業に、一切凡聖の身の上において、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、未だ除尽することあたわず。しかるにこれらの罪は、三界悪道に繫属す。いかんぞ一生の修福念仏をして、すなわちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや。」答えて曰わく、諸仏の教行数塵沙に越えたり、識を稟くる機縁、情に随いて一にあらず。たとえば世間の人、眼に見るべく信ずべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有を含み、地のよく載養し、水のよく生潤し、火のよく成壊するがごとし。これらのごときの事、ことごとく「待対の法」と名づく。すなわち目に見つべし。千差万別なり。いかにいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。随いて一門を出ずるは、すなわち一煩悩の門を出ずるなり。随いて一門に入るは、すなわち一解脱智慧の門に入るなり。これを為って縁に随いて行を起こして、おのおの解脱を求めよ。汝何をもってか、いまし有縁の要行にあらざるをもって、我を障惑する。しかるに我が所愛は、すなわちこれ我が有縁の行なり、すなわち汝が所求にあらず。汝が所愛は、すなわちこれ汝が有縁の行なり、また我が所求にあらず。このゆえにおのおの所楽に随いてその行を修するは、必ず疾く解脱を得るなり。行者当に知るべし、もし解を学ばんと欲わば、凡より聖に至るまで、乃至仏果まで、一切碍なし、みな学ぶことを得るとなり。もし行を学ばんと欲わば、必ず有縁の法に籍れ、少しき功労を用いるに多く益を得ればなりと。また一切往生人等に白さく、今更に行者のために、一つの譬喩を説きて信心を守護して、もって外邪異見の難を防がん。何者かこれや。譬えば、人ありて西に向かいて行かんと欲するに百千の里ならん、忽然として中路に二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。正しく水火の中間に、一つの白道あり、闊さ四五寸許なるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交わり過ぎて道を湿す。その火焰また来りて道を焼く。水火あい交わりて常にして休息なけん。この人すでに空曠の迥なる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競い来りてこの人を殺さんと欲す。死を怖れて直ちに走りて西に向かうに、忽然としてこの大河を見て、すなわち自ら念言すらく、「この河、南北辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きわめてこれ狭少なり。二つの岸、あい去ること近しといえども、何に由ってか行くべき。今日定んで死せんこと疑わず。正しく到り回らんと欲すれば、群賊悪獣漸漸に来り逼む。正しく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣毒虫競い来りて我に向かう。正しく西に向かいて道を尋ねて去かんと欲すれば、また恐らくはこの水火の二河に堕せんことを。」時に当たりて惶怖すること、また言うべからず。すなわち自ら思念すらく、「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。すでにこの道あり。必ず度すべし」と。この念を作す時、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。「仁者ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。この人すでに此に遣わし彼に喚うを聞きて、すなわち自ら正しく身心に当たりて、決定して道を尋ねて直ちに進みて、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚うて言わく、「仁者回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。必ず死せんこと疑わず。我等すべて悪心あってあい向うことなし」と。この人、喚う声を聞くといえどもまた回顧ず。一心に直ちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなわち西の岸に到りて永く諸難を離る。善友あい見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩なり。次に喩を合せば、「東岸」というは、すなわちこの娑婆の火宅に喩うるなり。「西岸」というは、すなわち極楽宝国に喩うるなり。「群賊悪獣詐り親む」というは、すなわち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩うるなり。「無人空迥の沢」というは、すなわち常に悪友に随いて、真の善知識に値わざるに喩うるなり。「水火二河」というは、すなわち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩うるなり。「中間の白道四五寸」というは、すなわち衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩うるなり。いまし貪瞋強きによるがゆえに、すなわち水火のごとしと喩う。善心微なるがゆえに、白道のごとしと喩う。また「水波常に道を湿す」とは、すなわち愛心常に起こりてよく善心を染汚するに喩うるなり。また「火焰常に道を焼く」とは、すなわち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩うるなり。「人、道の上を行いて直ちに西に向かう」というは、すなわちもろもろの行業を回して直ちに西方に向かうに喩うるなり。「東の岸に人の声勧め遣わすを聞きて、道を尋ねて直ちに西に進む」というは、すなわち釈迦すでに滅したまいて後の人、見たてまつらず、なお教法ありて尋ぬべきに喩う、すなわちこれを声のごとしと喩うるなり。「あるいは行くこと一分二分するに、群賊等喚び回す」というは、すなわち別解・別行・悪見の人等、妄に説くに見解をもって、迭いにあい惑乱し、および自ら罪を造りて退失すと喩うるなり。「西の岸の上に人ありて喚う」というは、すなわち弥陀の願意に喩うるなり。「須臾に西の岸に到りて善友あい見て喜ぶ」というは、すなわち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪回し迷倒して、自ら纏うて解脱に由なし、仰いで釈迦発遣して指えて西方に向かえたまうことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまうに籍って、今二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念念に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命已後かの国に生まるることを得て、仏とあい見て慶喜すること何ぞ極まらんと喩うるなり。また一切の行者、行住座臥に、三業の所修、昼夜時節を問うことなく、常にこの解を作し常にこの想を作すがゆえに、「回向発願心」と名づく。また「回向」というは、かの国に生じ已りて、還りて大悲を起こして、生死に回入して、衆生を教化する、また回向と名づくるなり。三心すでに具すれば行として成ぜざるなし、願行すでに成じてもし生まれずは、この処あることなしとなり。またこの三心、また定善の義を通摂すと。知るべし、と。已上

23(般舟讃)また云わく、敬いて一切往生の知識等に白さく、大きに須らく慚愧すべし。釈迦如来は実にこれ慈悲の父母なり、種種の方便をもって我等が無上の信心を発起せしめたまえり、と。已上

24『貞元の新定釈教の目録』(円照編)巻第十一に云わく、『集諸経礼懴儀』上下、大唐西崇福寺の沙門智昇の撰なり。貞元十五年十月二十三日に准えて勘編して入ると云々。『懴儀』の上巻は、智昇諸経に依って『懴儀』を造る中に、『観経』に依っては善導の『礼懴』の日中の時の礼を引けり。下巻は比丘善導の集記云々。かの『懴儀』に依って要文を鈔して云わく、二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。今、弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで、疑心あることなし。かるがゆえに「深心」と名づく、と。乃至 それ、かの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一心を至せば、みな当に彼に生まるることを得べし、と。抄出

25『往生要集』に云わく、『入法界品』に言わく、「たとえば人ありて不可壊の薬を得れば、一切の怨敵その便りを得ざるがごとし。菩薩摩訶薩もまたかくのごとし。菩提心不可壊の法薬を得れば、一切の煩悩・諸魔・怨敵、壊ることあたわざるところなり。たとえば人ありて住水宝珠を得てその身に瓔珞とすれば、深き水中に入りて没溺せざるがごとし。菩提心の住水宝珠を得れば、生死海に入りて沈没せず。たとえば金剛は百千劫において水中に処して、爛壊しまた異変なきがごとし。菩提の心もまたかくのごとし。無量劫において生死の中・もろもろの煩悩業に処するに、断滅することあたわず、また損減なし」と。已上

26また云わく、我またかの摂取の中にあれども、煩悩眼を障えて見たてまつるにあたわずといえども、大悲惓きことなくして常に我が身を照らしたまう、と。已上

27しかれば、もしは行・もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまうところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと。知るべし。

28問う。如来の本願、すでに至心・信楽・欲生の誓いを発したまえり。何をもってのゆえに論主「一心」と言うや。29答う。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまうといえども、涅槃の真因はただ信心をもってす。このゆえに論主、三を合して一と為るか。30私に三心の字訓を闚うに、三はすなわち一なるべし。その意何んとなれば、「至心」と言うは、「至」はすなわちこれ真なり、実なり、誠なり。「心」はすなわちこれ種なり、実なり。「信楽」と言うは、「信」はすなわちこれ真なり、実なり、誠なり、満なり、極なり、成なり、用なり、重なり、審なり、験なり、宣なり、忠なり。「楽」はすなわちこれ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。「欲生」と言うは、「欲」はすなわちこれ願なり、楽なり、覚なり、知なり。「生」はすなわちこれ成なり、作なり、為なり、興なり。

31明らかに知りぬ、「至心」はすなわちこれ真実誠種の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。「信楽」はすなわちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。「欲生」はすなわちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり、大悲回向の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。32今三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑わることなし、正直の心にして邪偽雑わることなし。真に知りぬ、疑蓋間雑なきがゆえに、これを「信楽」と名づく。「信楽」はすなわちこれ一心なり。一心はすなわちこれ真実信心なり。このゆえに論主建めに「一心」と言えるなり、と。知るべし。

33また問う。字訓のごとき、論主の意、三をもって一とせる義、その理しかるべしといえども、愚悪の衆生のために、阿弥陀如来すでに三心の願を発したまえり、云何が思念せんや。34答う。仏意測り難し、しかりといえども竊かにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。かるがゆえに、疑蓋雑わることなし。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。

35ここをもって『大経』に言わく、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず、欲想・瞋想・害想を起こさず。色・声・香・味の法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして、染・恚・痴なし。三昧常寂にして、智慧無碍なり。虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして、志願惓きことなし。専ら清白の法を求めて、もって群生を恵利しき。三宝を恭敬し師長に奉事しき。大荘厳をもって衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしむ、とのたまえりと。已上

36『無量寿如来会』に言わく、仏阿難に告げたまわく、かの法処比丘、世間自在王如来および諸天・人・魔・梵・沙門・婆羅門等の前にして、広くかくのごとき大弘誓を発しき。みなすでに成就したまえり。世間に希有にして、この願を発し已りて実のごとく安住す。種種の功徳具足して、威徳広大清浄仏土を荘厳せり。かくのごとき菩薩の行を修習せること、時、無量・無数・不可思議・無有等等・億那由他百千劫を経るうちに、初めて未だかつて貪・瞋および痴・欲・害・恚の想を起こさず。色・声・香・味・触の想を起こさず。もろもろの衆生において、常に愛敬を楽うこと、なお親属のごとし。乃至 その性調順にして暴悪あることなし。もろもろの有情において常に慈忍の心を懐いて詐諂せず、また懈怠なし。善言策進してもろもろの白法を求めしめ、あまねく群生のために勇猛にして退なく世間を利益せしめ、大願円満したまえり、と。略出

37(散善義)光明寺の和尚云わく、この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲うは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行ぜし時、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心の中に作したまえるに由ってなり。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり、と。乃至 不善の三業をば、必ず真実心の中に捨てたまえるを須いよ。また、もし善の三業を起こさば、必ず真実心の中に作したまえるを須いて、内外・明闇を簡ばず、みな真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく、と。抄要

38しかれば、大聖の真言・宗師の釈義、まことに知りぬ、この心すなわちこれ不可思議・不可称・不可説の一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを「至心」と名づく。

39すでに「真実」と言えり。「真実」というは、

『涅槃経』に言わく、実諦は一道清浄にして二あることなきなり。「真実」というは、すなわちこれ如来なり。如来はすなわちこれ真実なり。真実はすなわちこれ虚空なり。虚空はすなわちこれ真実なり。真実はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ真実なり、と。已上

40『釈』(散善義)に、「不簡内外明闇」と云えり。「内外」とは、「内」はすなわちこれ出世なり、「外」はすなわちこれ世間なり。「明闇」とは、「明」はすなわちこれ出世なり、「闇」はすなわちこれ世間なり。また「明」はすなわち智明なり、「闇」はすなわち無明なり。

涅槃経』に言わく、「闇」はすなわち世間なり、「明」はすなわち出世なり。「闇」はすなわち無明なり、「明」はすなわち智明なり、と。已上

41次に「信楽」というは、すなわちこれ如来の満足大悲・円融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋間雑あることなし、かるがゆえに「信楽」と名づく。すなわち利他回向の至心をもって、信楽の体とするなり。しかるに無始より已来、一切群生海、無明海に流転し諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繫縛せられて、清浄の信楽なし。法爾として真実の信楽なし。ここをもって無上功徳、値遇しがたく、最勝の浄信、獲得しがたし。一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。また「虚仮・諂偽の行」と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲する、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しく如来、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念・一刹那も疑蓋雑わることなきに由ってなり。この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに、必ず報土の正定の因と成る。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまえり。これを「利他真実の信心」と名づく。

42本願信心の願成就の文、

『経』(大経)に言わく、諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん、と。已上

43(如来会)また言わく、他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せん、と。已上

44『涅槃経』(師子吼菩薩品)に言わく、善男子、大慈大悲を名づけて「仏性」とす。何をもってのゆえに。大慈大悲は常に菩薩に随うこと影の形に随うがごとし。一切衆生畢に定んで当に大慈大悲を得べし。このゆえに説きて「一切衆生悉有仏性」と言えるなり。大慈大悲は名づけて「仏性」とす。「仏性」は名づけて「如来」とす。大喜大捨を名づけて「仏性」とす。何をもってのゆえに、菩薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つること能わずは、すなわち阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わず。もろもろの衆生畢に当に得べきをもってのゆえに。このゆえに説きて「一切衆生悉有仏性」と言えるなり。大喜大捨はすなわちこれ仏性なり、仏性はすなわちこれ如来なり。仏性は「大信心」と名づく。何をもってのゆえに、信心をもってのゆえに、菩薩摩訶薩はすなわちよく檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足せり、一切衆生は畢に定んで当に大信心を得べきをもってのゆえに。このゆえに説きて「一切衆生悉有仏性」と言えるなり。大信心はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なり。仏性は「一子地」と名づく。何をもってのゆえに、一子地の因縁をもってのゆえに菩薩はすなわち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は畢に定んで当に一子地を得べきがゆえに、このゆえに説きて、「一切衆生悉有仏性」と言えるなり。一子地はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なり、と。已上

45(迦葉菩薩品)また言わく、あるいは阿耨多羅三藐三菩提を説くに、信心を因とす。これ菩提の因、また無量なりといえども、もし信心を説けば、すなわちすでに摂尽しぬ、と。已上

46また言わく、信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて思より生ぜざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん、これを名づけて「信不具足」とす、といえり。已上抄出

47『華厳経』(入法界品・晋訳)に言わく、この法を聞きて、信心を歓喜して疑いなき者は、速やかに無上道を成らん、もろもろの如来と等し、となり。

48(入法界品・唐訳)また言わく、如来よく永く一切衆生の疑いを断たしむ。その信の所楽に随いて、普くみな満足せしむ、となり。

49(賢首品・唐訳)また言わく、信は道の元とす、功徳の母なり。一切もろもろの善法を長養す。疑網を断除して愛流を出でて、涅槃無上道を開示せしむ。信は垢濁の心なし、清浄にして驕慢を滅除す、恭敬の本なり、また法蔵第一の財とす、清浄の手として衆行を受く。信はよく恵施して心に悋むことなし。信はよく歓喜して仏法に入る。信は智功徳を増長す。信はよく必ず如来地に到る。信は諸根をして浄明利ならしむ。信力堅固なればよく壊することなし。信はよく永く煩悩の本を滅す。信はよく専ら仏功徳に向かえしむ。信は境界において所着なし、諸難を遠離して無難を得しむ。信はよく衆魔の路を超出し無上解脱道を示現せしむ。信は功徳のために種を壊らず。信はよく菩提樹を生長す。信はよく最勝智を増益す。信はよく一切仏を示現せしむ。このゆえに行に依って次第を説く。信楽最勝にしてはなはだ得ること難し。乃至 もし常に諸仏に信奉すれば、すなわちよく大供養を興集す。もしよく大供養を興集すれば、かの人、仏の不思議を信ず。もし常に尊法に信奉すれば、すなわち仏法を聞くに厭足なし。もし仏法を聞くに厭足なければ、かの人、法の不思議を信ず。もし常に清浄僧に信奉すれば、すなわち信心退転せざることを得。もし信心不退転を得れば、かの人の信力よく動くことなし。もし信力を得てよく動くことなければ、すなわち諸根浄明利を得ん。もし諸根浄明利を得れば、すなわち善知識に親近すること得。すなわち善知識に親近することを得れば、すなわちよく広大善を修集す。もしよく広大善を修集すれば、かの人、大因力を成就す。もし人、大因力を成就すれば、すなわち殊勝決定の解を得。もし殊勝決定の解を得れば、すなわち諸仏の為に護念せらる。もし諸仏の為に護念せらるれば、すなわちよく菩提心を発起す。もしよく菩提心を発起すれば、すなわちよく仏の功徳を勤修せしむ。もしよく仏の功徳を勤修すれば、すなわちよく生まれて如来の家に在らん。もし生まれて如来の家に在ることを得れば、すなわち善をして巧方便を修行せん。もし善をして巧方便を修行すれば、すなわち信楽の心、清浄なることを得。もし信楽の心清浄を得れば、すなわち増上の最勝心を得。もし増上の最勝心を得れば、すなわち常に波羅蜜を修習せん。もし常に波羅蜜を修習すれば、すなわちよく摩訶衍を具足せん。もしよく摩訶衍を具足すれば、すなわちよく法のごとく仏を供養せん。もしよく如法に仏を供養すれば、すなわちよく念仏の心動ぜず。もしよく念仏の心動ぜざれば、すなわち常に無量仏を覩見せん。もし常に無量仏を覩見すれば、すなわち如来の体常住を見ん。もし如来の体常住を見れば、すなわちよく法永く不滅なることを知らん。もしよく法永く不滅なるを知れば、すなわち弁才無障碍を得ん。もし弁才無障碍を得れば、すなわちよく無辺の法を開演せん。もしよく無辺の法を開演せば、すなわちよく慈愍して衆生を度せん。もしよく衆生を慈愍し度すれば、すなわち堅固の大悲心を得ん。もし堅固の大悲心を得れば、すなわちよく甚深の法を愛楽せん。もしよく甚深の法を愛楽すれば、すなわちよく有為の過を捨離せん。もしよく有為の過を捨離すれば、すなわち驕慢および放逸を離る。もし驕慢および放逸を離るれば、すなわちよく一切衆を兼利せん。もしよく一切衆を兼利すれば、すなわち生死に処して疲厭なけん、となり。略抄

50『論註』に曰わく、「如実修行相応」と名づく、このゆえに論主建めに「我一心」と言えり。已上

51また言わく、経の始めに「如是」と称することは、心を彰して能入とす。已上

52次に「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず。かるがゆえに「不回向」と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆえに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに。利他真実の欲生心をもって諸有海に回施したまえり。欲生はすなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。

53ここをもって本願の欲生心成就の文、

『経』(大経)に言わく、至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと。唯五逆と誹謗正法とを除く、と。已上

54(如来会)また言わく、所有の善根回向したまえるを愛楽して、無量寿国に生まれんと願ずれば、願に随いてみな生ぜしめ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間・誹謗正法および謗聖者を除く、と。已上

55『浄土論』(論註)に曰わく、「云何が回向したまえる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」とのたまえり。回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施したまいて、作願して共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまうなり。還相は、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。もしは往・もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがために、とのたまえり。このゆえに「回向為首得成就大悲心故」と言えり、と。已上

56また云わく、「浄入願心」とは、『論』に曰わく、「また向に観察荘厳仏土功徳成就・荘厳仏功徳成就・荘厳菩薩功徳成就を説きつ。この三種の成就は、願心の荘厳したまえるなりと、知る応し」といえりと。「応知」とは、この三種の荘厳成就は、本四十八願等の清浄の願心の荘厳したまうところなるに由って、因浄なるがゆえに果浄なり、因なくして他の因あるにはあらざるなりと知る応しとなり、と。已上

57また『論』(浄土論)に曰わく、「出第五門」とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示して、生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを「出第五門」と名づくとのたまえり、と。已上

58(散善義)光明寺の和尚の云わく、また回向発願して生まるる者は、必ず決定真実心の中に回向したまえる願を須いて、得生の想を作せ。この心深く信ぜること、金剛のごとくなるに由って、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉って、正直に進みて、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなわち進退の心ありて怯弱を生じ、回顧すれば、道に落ちてすなわち往生の大益を失するなり、と。已上

59真に知りぬ。二河の譬喩の中に、「白道四五寸」と言うは、「白道」とは、「白」の言は黒に対するなり。「白」は、すなわちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。「黒」は、すなわちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人天の雑善なり。「道」の言は、路に対せるなり。「道」は、すなわちこれ本願一実の直道、大般涅槃無上の大道なり。「路」は、すなわちこれ二乗・三乗・万善諸行の小路なり。「四五寸」と言うは、衆生の四大・五陰に喩うるなり。60「能生清浄願心」と言うは、金剛の真心を獲得するなり。本願力回向の大信心海なるがゆえに、破壊すべからず。これを「金剛のごとし」と喩うるなり。

61『観経義』(玄義分)に、道俗時衆等、おのおの無上心を発せども、生死ははなはだ厭いがたく、仏法また欣いがたし。共に金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。正しく金剛心を受け、一念に相応して後、果、涅槃を得ん者と云えり。抄要

62(序分義)また云わく、真心徹到して、苦の娑婆を厭い、楽の無為を欣いて、永く常楽に帰すべし。ただし無為の境、軽爾としてすなわち階うべからず。苦悩の娑婆、輙然として離るることを得るに由なし。金剛の志を発すにあらずよりは、永く生死の元を絶たんや。もし親り慈尊に従いたてまつらずは、何ぞよくこの永き歎きを勉れん、と。

63(定善義)また云わく、「金剛」と言うは、すなわちこれ無漏の体なり。已上

64信に知りぬ。「至心」・「信楽」・「欲生」、その言異なりといえども、その意惟一なり。何をもってのゆえに、三心すでに疑蓋雑わることなし。かるがゆえに真実の一心なり、これを「金剛の真心」と名づく。金剛の真心、これを「真実の信心」と名づく。65真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建めに「我一心」と言えり。また「如彼名義欲如実修行相応故」と言えり。

66おおよそ大信海を案ずれば、貴賎・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず・善にあらず・頓にあらず・漸にあらず・定にあらず・散にあらず、正観にあらず・邪観にあらず・有念にあらず・無念にあらず、尋常にあらず・臨終にあらず、多念にあらず・一念にあらず、ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり。たとえば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。

67しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。また竪について、また二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。「竪超」・「竪出」は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横について、また二種あり。一つには横超、二つには横出なり。「横出」は、正雑・定散・他力の中の自力の菩提心なり。「横超」は、これすなわち願力回向の信楽、これを「願作仏心」と曰う。願作仏心は、すなわちこれ横の大菩提心なり。これを「横超の金剛心」と名づくるなり。68横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといえども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。

69『論註』に曰わく、王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生の中に行に優劣ありといえども、みな無上菩提の心を発せざるはなし。この無上菩提心は、すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなわちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆえにかの安楽浄土に生まれんと願ずる者は、要ず無上菩提心を発するなり。もし人、無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽間なきを聞きて、楽のためのゆえに生まれんと願ぜん、また当に往生を得ざるべきなり。このゆえに言うこころは、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲うがゆえに」と。「住持の楽」とは、いわくかの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、受楽間なきなり。おおよそ回向の名義を釈せば、いわく己が所集の一切の功徳をもって、一切衆生に施与したまいて、共に仏道に向かえしめたまうなり、と。抄出

70(阿弥陀経義疏)元照律師の云わく、他の為すこと能わざるがゆえに甚難なり。世挙って未だ見たてまつらざるがゆえに希有なり、といえり。

71また云わく、念仏法門は愚痴・豪賎を簡ばず、久近・善悪を論ぜず。ただ決誓猛信を取れば、臨終悪相なれども十念に往生す。これすなわち具縛の凡愚・屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。「世間甚難信」と謂うべきなり。

72また云わく、この悪世にして修行成仏するを難とするなり。もろもろの衆生のためにこの法門を説くを二の難とするなり。前の二難を承けて、すなわち諸仏所讃の虚しからざる意を彰す。衆生聞きて信受せしめよとなり、と。已上

73律宗の用欽の云わく、法難を説く中に、良にこの法をもって凡を転じて聖と成すこと、掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆえに、おおよそ浅き衆生は、多く疑惑を生ぜん。すなわち『大本』(大経)に「易往而無人」と云えり。かるがゆえに知りぬ、難信なり、と。

74『聞持記』に云わく、不簡愚痴 性に利鈍あり、不択豪賎 報に強弱あり、不論久近 功に浅深あり、不選善悪 行に好醜あり、取決誓猛信臨終悪相 すなわち『観経』の下品中生に地獄の衆火一時に倶に至ると等、具縛凡愚 二惑全くあるがゆえに、屠沽下類刹那超越成仏之法可謂一切世間甚難信也 屠は謂わく殺を宰どる、沽はすなわち醞売、かくのごときの悪人、ただ十念に由ってすなわち超往を得、あに難信にあらずや、と。

75阿弥陀如来は、真実明・平等覚・難思議・畢竟依・大応供・大安慰・無等等・不可思議光と号したてまつるなり、と。已上

76『楽邦文類』の後序に曰わく、浄土を修する者常に多けれども、その門を得て径ちに造る者幾もなし。浄土を論ずる者常に多けれども、その要を得て直ちに指うる者あるいはすくなし。かつて未だ聞かず、自障自蔽をもって説を為すことある者、得るに因って、もってこれを言う。それ「自障」は愛にしくなし。「自蔽」は疑にしくなし。ただ疑・愛の二心了に障碍なからしむるは、すなわち浄土の一門なり。未だ始めて間隔せず。弥陀の洪願、常に自ずから摂持したまう、必然の理なり。已上

77それ真実信楽を案ずるに、信楽に一念あり。「一念」は、これ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。

78ここをもって『大経』に言わく、諸有衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと、と。

79(如来会)また、他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せん、と言えり。

80(大経)また、その仏の本願の力、名を聞きて往生せんと欲え、と言えり。

81(如来会)また、仏の聖徳の名を聞く、と言えり。已上

82『涅槃経』(迦葉菩薩品)に言わく、いかんが名づけて「聞不具足」とする。如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じて、未だ六部を信ぜず。このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受持すといえども、読誦に能わずして他のために解説するは、利益するところなけん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受け已りて、論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のためのゆえに、持読誦説せん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす、とのたまえり。已上

83(散善義)光明寺の和尚は、「一心専念」と云い、また「専心専念」と云えり、と。已上

84しかるに『経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。「歓喜」と言うは、身心の悦予の貌を形すなり。「乃至」と言うは、多少を摂するの言なり。「一念」と言うは、信心二心なきがゆえに「一念」と曰う。これを「一心」と名づく。一心はすなわち清浄報土の真因なり。85金剛の真心を獲得すれば、横に五趣・八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲。何者か十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。86宗師の「専念」と云えるは、すなわちこれ一行なり。「専心」と云えるは、すなわちこれ一心なり。

87しかれば、願成就の一念は、すなわちこれ専心なり。専心すなわちこれ深心なり。深心すなわちこれ深信なり。深信すなわちこれ堅固深信なり。堅固深信すなわちこれ決定心なり。決定心すなわちこれ無上上心なり。無上上心すなわちこれ真心なり。真心すなわちこれ相続心なり。相続心すなわちこれ淳心なり。淳心すなわちこれ憶念なり。憶念すなわちこれ真実一心なり。真実一心すなわちこれ大慶喜心なり。大慶喜心すなわちこれ真実信心なり。真実信心すなわちこれ金剛心なり。金剛心すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心すなわちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなわちこれ大菩提心なり。この心すなわちこれ大慈悲心なり。88この心すなわちこれ無量光明慧に由って生ずるがゆえに。願海平等なるがゆえに発心等し、発心等しきがゆえに道等し、道等しきがゆえに大慈悲等し、大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆえに。

89『論の註』に曰わく、かの安楽浄土に生まれんと願ずる者は、発無上菩提心を要す、とのたまえるなり。

90また云わく、「是心作仏」は、言うこころは、心よく作仏するなり。「是心是仏」は、心の外に仏ましまさずとなり。譬えば、火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもってのゆえに、すなわちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなわち火となるがごときなり。

91(定善義)光明の云わく、この心作仏す、この心これ仏なり、この心の外に異仏ましまさず、とのたまえり。已上

92かるがゆえに知りぬ。一心、これを「如実修行相応」と名づく。すなわちこれ正教なり、これ正義なり、これ正行なり、これ正解なり、これ正業なり、これ正智なり。三心すなわち一心なり、一心すなわち金剛真心の義、答え竟りぬ。知るべしと。

93『止観』の一に云わく、「菩提」は天竺の語、ここには「道」と称す。「質多」は天竺の音なり、この方には「心」と云う。「心」はすなわち慮知なり。已上

94「横超断四流」と言うは、「横超」は、「横」は竪超・竪出に対す、「超」は迂に対し回に対するの言なり。「竪超」は、大乗真実の教なり。「竪出」は大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。「横超」は、すなわち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また「横出」あり、すなわち三輩・九品・定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の傾に速やかに疾く無上正真道を超証す、かるがゆえに「横超」と曰うなり。

95『大本』(大経)に言わく、無上殊勝の願を超発す、と。

96また言わく、我、超世の願を建つ、必ず無上道に至らん、と。名声十方に超えて、究竟して聞こゆる所なくは、誓う、正覚を成らじ、と。

97また言わく、必ず超絶して去つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉じん。道に昇るに窮極なし。往き易くして人なし。その国逆違せず。自然の牽くところなり。已上

98『大阿弥陀経』支謙に言わく、超絶して去つることを得べし。阿弥陀仏国に往生すれば、横に五悪道を截りて、自然に閉塞す。道に昇るに之極まりなし。往き易くして人あることなし。その国土逆違せず。自然の牽く随なり、と。已上

99「断」と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆえに「断」と曰うなり。「四流」は、すなわち四暴流なり。また生・老・病・死なり。

100『大本』に言わく、かならず当に仏道を成りて、広く生死の流を度すべし、と。

101(平等覚経)また言わく、かならず当に世尊と作りて、将に一切生・老・死を度せんとす、と。已上

102『涅槃経』(師子吼菩薩品)に言わく、また涅槃は名づけて「洲渚」とす。何をもってのゆえに、四大の暴河に漂うことあたわざるがゆえに。何等をか四とする、一つには欲暴、二つには有暴、三つには見暴、四つには無明暴なり。このゆえに涅槃を名づけて「洲渚」とす、と。已上

103(般舟讃)光明寺の和尚の云わく、もろもろの行者に白さく、凡夫生死、貪して厭わざるべからず。弥陀の浄土、軽めて欣わざるべからず。厭えばすなわち娑婆永く隔つ、欣えばすなわち浄土に常に居せり。隔つればすなわち六道の因亡じ、輪回の果自ずから滅す。因果すでに亡じてすなわち形と名と頓に絶うるをや。

104(往生礼讃)また云わく、仰ぎ願わくは一切往生人等、善く自ら己が能を思量せよ。今身にかの国に生まれんと願わん者は、行住座臥に、必ず須らく心を励まし己に剋して、昼夜に廃することなかるべし。畢命を期として、上一形にあるは少しく苦しきに似如たれども、前念に命終して後念にすなわちかの国に生まれて、長時・永劫に常に無為の法楽を受く。乃至成仏までに生死を径ず、あに快しみにあらずや。知るべし、と。已上

105「真仏弟子」と言うは、「真」の言は偽に対し、仮に対するなり。「弟子」とは釈迦・諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信・行に由って、必ず大涅槃を超証すべきがゆえに、「真仏弟子」と曰う。

106『大本』に言わく、設い我仏を得たらんに、十方無量・不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が光明を蒙りてその身に触るる者、身心柔軟にして人天に超過せん。もし爾らずは、正覚を取らじ、と。

107設い我仏を得たらんに、十方無量・不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が名字を聞きて、菩薩の無生法忍・もろもろの深総持を得ずは、正覚を取らじ、と。已上

108『無量寿如来会』に言わく、もし我成仏せんに、周遍十方無量・無辺・不可思議・無等界の衆生の輩、仏の威光を蒙りて照触せらるる者、身心安楽にして人天に超過せん。もし爾らずは、菩提を取らじ、と。已上

109(大経)また、法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶ばば、すなわち我が善き親友なり、と言えりと。

110また言わく、それ至心ありて安楽国に生まれんと願ずれば、智慧明らかに達し、功徳殊勝を得べし、と。

111(如来会)また、広大勝解者、と言えりと。

112また、かくのごとき等の類、大威徳の者、よく広大異門に生まる、と言えりと。

113(観経)また言わく、もし念仏する者は、当に知るべし。この人はこれ人中の分陀利華なり、と。已上

114『安楽集』に云わく、諸部の大乗に拠って説聴の方軌を明かさば、『大集経』に云わく、「説法の者においては、医王の想を作せ、抜苦の想を作せ。所説の法をば、甘露の想を作せ、醍醐の想を作せ。それ聴法の者をば、増長勝解の想を作せ、愈病の想を作せ。もしよくかくのごとき説者・聴者は、みな仏法を紹隆するに堪えたり、常に仏前に生ぜん」と。乃至 115『涅槃経』に依るに、「仏の言わく、もし人ただよく心を至して、常に念仏三昧を修すれば、十方諸仏恒にこの人を見そなわすこと、現に前に在すがごとし。」このゆえに『涅槃経』に云わく、「仏、迦葉菩薩に告げたまわく、もし善男子・善女人ありて、常によく心を至し専ら念仏する者は、もしは山林にもあれ、もしは聚落にもあれ、もしは昼・もしは夜、もしは座・もしは臥、諸仏世尊、常にこの人を見そなわすこと、目の前に現ぜるがごとし、恒にこの人のためにして受施を作さん」と。乃至

116『大智度論』に依るに、三番の解釈あり。第一には、仏はこれ無上法王なり、菩薩は法臣とす。尊ぶところ、重くするところ、ただ仏・世尊なり。このゆえに当に常に念仏すべきなり。第二に、もろもろの菩薩ありて、自ら云わく、「我曠劫より已来、世尊我等が法身・智身・大慈悲身を長養することを蒙ることを得たりき。禅定・智慧・無量の行願、仏に由って成ずることを得たり。報恩のためのゆえに、常に仏に近ずかんことを願ず。また大臣の、王の恩寵を蒙りて、常にその王を念うがごとし。」第三に、もろもろの菩薩ありてまたこの言を作さく、「我因地にして悪知識に遇いて、波若を誹謗して悪道に堕しき。無量劫を径て余行を修すといえども、未だ出ずることあたわず。後に一時において善知識の辺に依りしに、我を教えて念仏三昧を行ぜん。その時にすなわちよくしかしながら、もろもろの障、方に解脱を得しむ。この大益あるがゆえに、願じて仏を離れず」と。乃至 117『大経』に云わく、「おおよそ浄土に往生せんと欲わば、発菩提心を須いるを要とするを源とす。」云何ぞ。「菩提」はすなわちこれ無上仏道の名なり。もし発心作仏せんと欲わば、この心広大にして法界に周遍せん。この心長遠にして未来際を尽くす。この心普く備に二乗の障を離る。もしよく一たび発心すれば、無始生死の有輪を傾く、と。乃至

118『大悲経』に云わく、「いかんが名づけて「大悲」とする。もし専ら念仏相続して断えざれば、その命終に随いて定んで安楽に生ぜん。もしよく展転してあい勧めて念仏を行ぜしむる者は、これらをことごとく、大悲を行ずる人と名づく」と。已上抄出

119(般舟讃)光明師の云わく、ただ恨むらくは衆生の疑うまじきを疑うことを。浄土対面してあい忤わず、弥陀の摂と不摂を論ずることなかれ。意専心にして回すると回せざるとにあり。乃至 あるいは道わく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜんと。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いずれの時・いずれの劫にか娑婆を出でん、と。乃至 いかんが今日宝国に至ることを期せん。実にこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土、云何してか入らん、と。

120(往生礼讃)また云わく、仏世はなはだ値い難し、人信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまた最も難しとす。自ら信じ人を教えて信ぜしむ、難きが中に転た更難し。大悲、弘く普く化する、真に仏恩を報ずるに成る、と。

121また云わく、弥陀の身色は金山のごとし。相好の光明は十方を照らす。ただ念仏するありて、光摂を蒙る。当に知るべし、本願最も強しとす。十方の如来舌を舒べて証したまう。専ら名号を称して西方に至る。かの華台に到りて妙法を聞く。十地の願行自然に彰る、と。

122(観念法門)また云わく、ただ阿弥陀仏を専念する衆生ありて、かの仏心の光、常にこの人を照らして摂護して捨てたまわず。すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず。これまたこれ現生護念増上縁なり、と。已上

123(序分義)また云わく、「心歓喜得忍」と言うは、これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼前に現ぜん。何ぞ踊躍に勝えん。この喜びに因るがゆえに、すなわち無生の忍を得。また「喜忍」と名づく、また「悟忍」と名づく、また「信忍」と名づく。これすなわち玄に談ずるに、未だ得処を標さず、夫人をして等しく心にこの益を悕わしめんと欲う。勇猛専精にして心に見んと想う時に、方に忍を悟るべし。これ多くこれ十信の中の忍なり、解行已上の忍にはあらざるを明かすなり、と。

124(散善義)また云わく、「若念仏者」とより、下「生諸仏家」に至るまで已来は、正しく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をして比類とすることを得るにあらざることを顕す。すなわちそれに五あり。一つには、弥陀仏の名を専念することを明かす。二つには、能念の人を指讃することを明かす。三つには、もしよく相続して念仏する者、この人はなはだ希有なりとす、さらに物としてもってこれに方ぶべきことなきことを明かす。かるがゆえに「芬陀利」を引きて喩とす。「分陀利」と言うは、「人中の好華」と名づく、また「希有華」と名づく、また「人中の上上華」と名づく、また「人中の妙好華」と名づく。この華あい伝えて「蔡華」と名づくる、これなり。もし念仏の者は、すなわちこれ人中の好人なり。人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。四つには、弥陀の名を専念すれば、すなわち観音・勢至常に随いて影護したまうこと、また親友・知識のごとくなることを明かすなり。五つには、今生にすでにこの益を蒙れり。命を捨ててすなわち諸仏の家に入らん、すなわち浄土これなり。彼に到りて長時に法を聞き、歴時供養せん。因円に果満ず。道場の座、あに賖ならんやということを明かす。已上

125(龍序浄土文)王日休云わく、我『無量寿経』を聞くに、「衆生この仏名を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住す」と。「不退転」は、梵語にはこれを「阿惟越致」と謂う。『法華経』には謂わく、弥勒菩薩の所得の報地なり。一念往生、すなわち弥勒に同じ。仏語虚しからず。この『経』は往生の径術・脱苦の神方なり。みな信受すべし、と。已上

126『大経』に言わく、仏、弥勒に告げたまわく、「この世界より、六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一一の菩薩は、すでに曾無数の諸仏を供養せりき。次いで弥勒のごとし」と。

127(如来会)また言わく、仏、弥勒に告げたまわく、「この仏土の中に、七十二億の菩薩あり。彼は無量億那由他百千の仏の所にして、もろもろの善根を種えて不退転を成ぜるなり。当にかの国に生ずべし」と。抄出

128律宗の用欽師の云わく、至れること『華厳』の極唱・『法華』の妙談に如かんや。かつは未だ普授あることを見ず。衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記を得ることは、誠に謂うところの、不可思議功徳の利なり、と。已上

129真に知りぬ。弥勒大士、等覚金剛心を窮むるがゆえに、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。かるがゆえに「便同」と曰うなり。しかのみならず、金剛心を獲る者は、すなわち韋提と等しく、すなわち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなわち往相回向の真心徹到するがゆえに、不可思議の本誓に籍るがゆえなり。

130(楽邦文類)禅宗の智覚、念仏行者を讃めて云わく、奇なるかな、仏力難思なれば、古今も未だあらず、と。

131(同右)律宗の元照師の云わく、ああ、教観に明らかなること、熟か智者に如かんや。終わりに臨みて『観経』を挙し、浄土を讃じて長く逝きんき。法界に達せること、熟か杜順に如かんや。四衆を勧め仏陀を念じて、勝相を感じて西に邁きき。禅に参わり性を見ること、熟か高玉・智覚に如かんや。みな社を結び仏を念じて倶に上品に登りき。業儒才ある、熟か劉・雷・柳子厚・白楽天に如かんや。しかるにみな筆を秉り誠を書して、かの土に生まれんとを願じき、と。已上

132「仮」と言うは、すなわちこれ聖道の諸機、浄土定散の機なり。

133(般舟讃)かるがゆえに光明師の云わく、仏教多門にして八万四なり、正しく衆生の機、不同なるがためなり、と。

134(法事讃)また云わく、方便の仮門等しくして殊なし、と。

135(般舟讃)また云わく、門門不同なるを「漸教」と名づく、万劫苦行して無生を証す、と。已上

136「偽」と言うは、すなわち六十二見、九十五種の邪道これなり。

137『涅槃経』(如来性品)に言わく、世尊常に説きたまわく、「一切の外は九十五種を学びて、みな悪道に趣く」と。已上

138(法事讃)光明師の云わく、九十五種みな世を汚す、ただ仏の一道、独り清閑なり、と。已上

139誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。

140それ仏、難治の機を説きて、

『涅槃経』(現病品)に言わく、迦葉、世に三人あり、その病治しがたし。一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには一闡提なり。かくのごときの三病、世の中に極重なり。ことごとく声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあらず。善男子、たとえば病あれば必ず死するに治なからんに、もし瞻病随意の医薬あらんがごとし。もし瞻病随意の医薬なからん、かくのごときの病、定んで治すべからず。当に知るべし。この人必ず死せんこと疑わずと。善男子、この三種の人、またかくのごとし。仏・菩薩に従いて聞治を得已りて、すなわちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発せん。もし声聞・縁覚・菩薩ありて、あるいは法を説き、あるいは法を説かざるあらん、それをして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむることあたわず、と。已上

141(梵行品)また言わく、その時に、王舎大城に阿闍世王あり。その性弊悪にしてよく殺戮を行ず。口の四悪、貪・恚・愚痴を具して、その心熾盛なり。乃至 しかるに眷属のために現世の五欲の楽に貪着するがゆえに、父の王辜なきに横に逆害を加す。父を害するに因って、己が心に悔熱を生ず。乃至 心悔熱するがゆえに、遍体に瘡を生ず。その瘡臭穢にして附近すべからず。すなわち自ら念言すらく、「我今この身にすでに華報を受けたり、地獄の果報、将に近づきて遠からずとす。その時に、その母韋提希后、種種の薬をもってためにこれを塗る。その瘡ついに増すれども降損あることなし。王すなわち母に白さく、「かくのごときの瘡は、心よりして生ぜり。四大より起これるにあらず。もし衆生よく治することありと言わば、この処あることなけん。」

時に大臣あり、名づけて「月称」と曰う。王の所に往至して、一面にありて立ちて白して言さく、「大王、何がゆえぞ愁悴して顔容悦ばざる。身痛とやせん、心痛とやせん」と。王、臣に答えて言わまく、「我今身心あに痛まざることを得んや。我が父辜なきに、横に逆害を加す。我智者に従いて曾てこの義を聞きき。世に五人あり、地獄を脱れず、と。いわく五逆罪なり。我今すでに無量・無辺・阿僧祇の罪あり。いかんぞ身心をして痛まざることを得ん。また良医の我が身心を治せんものなけん」と。臣、大王に言さく、「大きに愁苦することなかれ」と。すなわち偈を説きて言わく、「もし常に愁苦せば、愁ついに増長せん。人、眠を喜めば、眠すなわち滋く多きがごとし。淫を貪し酒を嗜むも、またかくのごとしと。王の言うところのごとし、「世に五人あり、地獄を脱れず」とは、誰か往きてこれを見て、来りて王に語るや。「地獄」と言うは、直ちにこれ世間に多く智者説かく、王の言うところのごとし、世に良医の身心を治する者なけん。今大医あり、「富闌那」と名づく。一切知見して自在を得て、定んで畢竟じて清浄梵行を修習して、常に無量・無辺の衆生のために、無上涅槃の道を演説す。もろもろの弟子のために、かくのごときの法を説けり、「黒業あることなければ黒業の報なし。白業あることなければ白業の報なし。黒・白業なければ黒・白業の報なし。上業および下業あることなし」と。この師いま、王舎城の中にいます。やや願わくは大王、屈駕して彼に往け、この師、身心を療治せしむべし」と。時に王、答えて言わまく、「審かによくかくのごとき我が罪を滅除せば、我当に帰依すべし」と。

また一の臣あり、名づけて「蔵徳」と曰う。また王の所へ往きてこの言を作さく、「大王、何がゆえぞ面貌憔悴して、唇口乾燋し、音声微細なるや、と。乃至 何の苦しむるところあってか、身痛とやせん、心痛とやせん」と。王すなわち答えて言わく、「我今身心いかんぞ痛まざらん。我これ痴盲にして慧目あることなし。もろもろの悪友に近づきて、これよく提婆達多悪人の言に随いて、正法の王に横に逆害を加す。我昔かつて、智人の偈説を聞きき、もし父母・仏および弟子において、不善の心を生じ、悪業を起こさん。かくのごときの果報、阿鼻獄にあり、と。この事をもってのゆえに、我心怖して大苦悩を生ぜしむ、と。また良医の救療を見ることなけん」と。大臣また言わく、「やや願わくは大王、しばらく愁怖することなかれ。法に二種あり、一つには出家、二つには王法なり。王法は、いわく、その父を害せり、すなわち王国土これ逆なりと云うといえども、実に罪あることなけん。迦羅羅虫のかならず母の腹を壊りて、しかして後にすなわち生ずるがごとし。生の法かくのごとし。母の身を破るといえども、実にまた罪なし。騾腹懐妊等またかくのごとし。治国の法、法としてかくのごとくなるべし。父兄を殺すといえども、実に罪あることなけん。出家の法は、乃至蚊蟻を殺するもまた罪あり。乃至 王の言うところのごとし、「世に良医の身心を治する者なけん」と。いま大師あり、「末伽梨拘賖梨子」と名づく。一切知見して衆生を憐愍すること、赤子のごとし。すでに煩悩を離れて、よく衆生の三毒の利箭を抜く、と。乃至 この師いま王舎大城にいます。やや願わくは大王、その所に往至して、王もし見ば衆罪消滅せん」と。時に王答えて言わく、「審かによくかくのごとき我が罪を滅除せば、我当に帰依すべし」と。

また一の臣あり、名づけて「実徳」と曰う。また王の所に到りて、すなわち偈を説きて言わく、「大王、何がゆえぞ身の瓔珞を脱ぎ、首の髪蓬乱せる。乃至かくのごときなるや、と。乃至 これ心痛とやせん、身痛とやせん。」王すなわち答えて言わく、「我いま身心あに痛まざることを得んや。我が父先王、慈愛仁惻して特に見て矜念せり、実に辜なきに、往きて相師に問う。相師答えて言さく、「この児生まれ已りて定んで当に父を害すべし」と。この語を聞くといえどもなお見て瞻養す。むかし智者のかくのごときの言を作ししを聞きき。「もし人、母と通じて、および比丘尼を汚し、僧祇物を偸み、無上菩提心を発せる人を殺し、およびその父を殺せん。かくのごときの人は、必定して当に阿鼻地獄に堕すべし」と。我今身心あに痛まざることを得んや。」大臣また言わく、「やや願わくは大王、また愁苦することなかれ、と。乃至 一切衆生みな余業あり。業縁をもってのゆえにしばしば生死を受く。もし先王に余業有らしめば、王今これを殺せん、竟に何の罪かあらん。やや願わくは大王、意を寛にして愁うることなかれ。何をもってのゆえに、もし常に愁苦すれば、愁ついに増長す。人眠を喜めば、眠すなわち滋く多きがごとし。淫を貪し酒を嗜むも、またかくのごとし。」乃至「刪闍邪毘羅胝子」

また一の臣あり、「悉知義」と名づく。すなわち王の所に至りて、かくのごときの言を作さく。乃至 王すなわち答えて言わまく、我今身心あに痛みなきことを得んや。乃至 先王辜なきに、横に逆悪を興ず。我またかつて智者の説きて言いしを聞きき。「もし父を害することあれば、当に無量阿僧祇劫において、大苦悩を受くべし」と。我今久しからずして、必ず地獄に堕せん。また良医の我が罪を救療することなけん、と。大臣すなわち言さく、やや願わくは大王、愁苦を放捨せよ。王聞かずや、むかし王ありき、名づけて「羅摩」と曰いき。その父を害し已りて王位を紹ぐことを得たりき。跋提大王・毘楼真王・那睺沙王・迦帝迦王・毘舎佉王・月光明王・日光明王・愛王・持多人王、かくのごときらの王、みなその父を害して王位を紹ぐことを得たりき。しかるに一として王の地獄に入る者なし。いま現在に、毘瑠璃王・優陀邪王・悪性王・鼠王・蓮華王、かくのごときらの王、みなその父を害せりき。ことごとく一として王の愁悩を生ずる者なし。地獄・餓鬼・天中と言うといえども、誰か見る者あるや。大王、ただ二つの有あり、一つには人道、二つには畜生なり。この二つありといえども、因縁生にあらず、因縁死にあらず。もし因縁にあらずは、何者か善悪あらん。やや願わくは大王、愁怖を懐くことなかれ。何をもってのゆえに、もし常に愁苦すれば、愁ついに増長す。人眠を喜めば、眠すなわち滋く多きがごとし。淫を貪し酒を嗜むも、またかくのごとし、と。乃至 「阿耆多翅舎欽婆羅」。

また大臣あり、名づけて「吉徳」と曰う。乃至 地獄と言うは、何の義ありとかせん、と。臣当にこれを説くべしと。「地は」地に名づく、「獄」は破に名づく。「地獄」を破せんに罪報あることなけん。これを「地獄」と名づく。また「地」は人に名づく、「獄」は天に名づく。その父を害するをもってのゆえに、人天に到らん。この義をもってのゆえに、婆蘇仙人唱えて言わく、「羊を殺して人天の楽を得、これを「地獄」と名づく」と。また「地」は命に名づく、「獄」は長に名づく。殺生をもってのゆえに寿命の長きを得。かるがゆえに「地獄」と名づく。大王、このゆえに当に知るべし。実に地獄なけん、と。大王、麦を種えて麦を得、稲を種えて稲を得るがごとし。地獄を殺しては、還りて地獄を得ん。人を殺害しては、還りて人を得べし。大王、今当に臣の所説を聴くに、実に殺害なかるべし、と。もし有我ならば実にまた害なし。もし無我ならばまた害するところなけん。何をもってのゆえに。もし有我ならば実に変易なし。常住をもってのゆえに、殺害すべからず。不破・不壊・不繫・不縛・不瞋・不喜は、虚空のごとし。いかんぞ当に殺害の罪あるべき。もし無我ならば、諸法無常なり。無常をもってのゆえに、念念に壊滅す。念念に滅するがゆえに、殺者・死者、みな念念に滅す。もし念念に滅せば、誰か当に罪あるべきや。大王、火、木を焼くに、火すなわち罪なきがごとし。斧、樹を斫るに、斧また罪なきがごとし。鎌、草を刈るに、鎌実に罪なきがごとし。刀、人を殺すに、刀実に人にあらず、刀すでに罪なきがごとし。人、いかんぞ罪あらんや。毒、人を殺す、毒実に人にあらず。毒薬、罪人にあらざるがごとし。いかんぞ罪あらんや。一切万物、みなまたかくのごとし。実に殺害なけん。いかんぞ罪あらんや。やや願わくは大王、愁苦を生ずることなかれ。何をもってのゆえに、もし常に愁苦せば、愁ついに増長せん。人眠を喜めば、眠すなわち滋く多きがごとし。淫を貪し酒を嗜むも、またかくのごとし。いま大師あり。「迦羅鳩駄迦旃延」と名づく。

また一の臣あり、「無所畏」と名づく。いま大師あり、「尼乾陀若提子」と名づく。乃至

その時に大医、名づけて「耆婆」と曰う。王の所に往至して、白して言さく、「大王、安くんぞ眠ることを得んや、不や」と。王、偈をもって答えて言わまく、乃至 耆婆、我今病重し。正法の王において悪逆害を興ず。一切の良医・妙薬・呪術・善巧瞻病の治することあたわざるところなり。何をもってのゆえに。我が父法王、法のごとく国を治む、実に辜なし。横に悪逆を加す、魚の陸に処するがごとし。乃至 我昔かつて智者説きて言うことを聞きき、身口意業もし清浄ならずは当に知るべし、この人必ず地獄に堕せん、と。我またかくのごとし。いかんぞ当に安穏に眠ることを得べきや。今我また無上の大医なし、法薬を演説せんに、我が病苦を除きてんや。耆婆、答えて言わく、善いかな、善いかな、王、罪を作すといえども、心に重悔を生じて慙愧を懐けり。大王、諸仏世尊常にこの言を説きたまわく、「二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。「慙」は内に自ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長を恭敬す。慙愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。善いかな大王、具に慙愧あり、と。乃至 王の言うところのごとし、よく治する者なけん。大王、当に知るべし。迦毘羅城に浄飯王の子、姓は瞿曇氏、悉達多と字く。師なくして自然に覚悟して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり、と。乃至 これ仏世尊なり。金剛智ましまして、よく衆生の一切悪罪を破せしむること、もしあたわずと言わば、この処あることなけん、と。乃至 大王。如来、弟提婆達多あり。衆僧を破壊し、仏身より血を出だし、蓮華比丘尼を害す、三逆罪を作せり。如来ために種種の法要を説きたまうに、その重罪をしてすなわち微薄なることを得しめたまう。このゆえに如来を「大良医」とす、六師にはあらざるなり、と。乃至 (虚空よりの声)「大王、一逆を作れば、すなわち具にかくのごとき一罪を受く。もし二逆罪を造らば、すなわち二倍ならん。五逆具ならば、罪もまた五倍ならん、と。大王、今定んで知りぬ。王の悪業、必ず勉るることを得じ。やや願わくは、大王、速やかに仏の所に往ずべし。仏世尊を除きて余は、よく救くることなけん。我今汝を愍れむがゆえに、あい勧めて導くなり」と。その時に大王、この語を聞き已りて、心に怖懼を懐けり。身を挙げて戦慄す、五体掉動して芭蕉樹のごとし。仰ぎて答えて曰わく、「天にこれ誰とかせん、色像を現ぜずしてただ声のみあることは。」「大王、我これ汝が父頻婆娑羅なり。汝今当に耆婆の所説に随うべし。邪見六臣の言に随うことなかれ。」時に聞き已りて、悶絶躄地す。身の瘡増劇して臭穢なること、前よりも倍えり。冷薬をもって塗り瘡を治療すといえども、瘡蒸し。毒熱ただ増せども損ずることなし、と。已上略出

一大臣、名づけて月称と曰う、   一富闌那と名づく。

二蔵徳、             二末伽梨拘賖梨子と名づく。

三一臣あり、名づけて実徳と曰う、 三刪闍邪毘羅胝子と名づく。

四一臣あり、悉知義と名づく、   四阿耆多翅舎欽婆羅と名づく。

五大臣、名づけて吉徳と曰う、   五迦羅鳩駄迦旃延。

六無所畏、            六尼乾陀若提子と名づく。

142(梵行品)また言わく、善男子、我が言うところのごとし、阿闍世王の「為」に涅槃に入らず。かくのごときの密義、汝未だ解することあたわず。何をもってのゆえに、我、「為」と言うは一切凡夫、「阿闍世」は普くおよび一切、五逆を造る者なり。また「為」は、すなわちこれ一切有為の衆生なり。我ついに無為の衆生のためにして世に住せず。何をもってのゆえに。それ無為は衆生にあらざるなり。「阿闍世」は、すなわちこれ煩悩等を具足せる者なり。また「為」は、すなわちこれ仏性を見ざる衆生なり。もし仏性を見んものには、我ついにために久しく世に住せず。何をもってのゆえに、仏性を見る者は衆生にあらざるなり。「阿闍世」は、すなわちこれ一切、未だ阿耨多羅三藐三菩提心を発せざる者なり。乃至 また「為」は、名づけて仏性とす。「阿闍」は、名づけて不生とす。「世」は、怨に名づく。仏性を生ぜざるをもってのゆえに、すなわち煩悩の怨生ず。煩悩の怨生ずるがゆえに、仏性を見ざるなり。煩悩を生ぜざるをもってのゆえに、すなわち仏性を見る。仏性を見るをもってのゆえに、すなわち大般涅槃に安住することを得。これを「不生」と名づく。このゆえに名づけて「阿闍世」とす。善男子、「阿闍」は不生に名づく、「不生」は涅槃と名づく。「世」は世法に名づく。「為」は不汚に名づく。世の八法をもって汚さざるところなるがゆえに、無量・無辺・阿僧祇劫に涅槃に入らずと。このゆえに我「阿闍世の為に無量億劫に涅槃に入らず」と言えり。善男子、如来の密語、不可思議なり。仏・法・衆僧、また不可思議なり。菩薩摩訶薩また不可思議なり。『大涅槃経』また不可思議なり。

その時に、世尊大悲導師、阿闍世王のために月愛三昧に入れり。三昧に入り已りて大光明を放つ。その光清涼にして、往きて王の身を照らしたまうに、身の瘡すなわち癒えぬ。乃至 王言わまく、「耆婆、彼は天中の天なり。何の因縁をもってこの光明を放ちたまうぞや」と。「大王、今この瑞法はおよび王のためにあい似たり。先ず言わまく、世に良医の身心を療治するものなきがゆえに、この光を放ちて先ず王の身を治す。しかして後に心に及ぶ。」王の耆婆に言わまく、如来世尊、また見たてまつらんと念うをや、と。耆婆答えて言わく、たとえば一人して七子あらん。この七子の中に、(一子)病に遇えば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなわち偏に重きがごとし。大王、如来もまた爾なり。もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなわち偏に重し。放逸の者において仏すなわち慈念したまう。不放逸の者は心すなわち放捨す。何等をか名づけて「不放逸の者」とすると。謂わく六住の菩薩なりと。大王、諸仏世尊、もろもろの衆生において、種姓・老少・中年・貧富・時節・日月・星宿・工巧・下賎・僮僕・婢使を観そなわさず。ただ衆生の善心ある者を観そなわす。もし善心あれば、すなわち慈念したまう。大王、当に知るべし。かくのごときの瑞法は、すなわちこれ如来、月愛三昧に入りて放つところの光明なり、と。王すなわち問うて言わまく、何等をか名づけて「月愛三昧」とする、と。耆婆答えて言わまく、たとえば月の光よく一切の優鉢羅華をして開敷し鮮明ならしむるがごとし。月愛三昧もまたかくのごとし、よく衆生をして善心開敷せしむ。このゆえに名づけて「月愛三昧」とす。たとえば月の光よく一切、路を行く人心に、歓喜を生ぜしむるがごとし。月愛三昧もまたかくのごとし、よく涅槃道を修習せん者の心に、歓喜を生ぜしむ。このゆえにまた「月愛三昧」と名づく、と。乃至 諸善の中の王なり、甘露味とす。一切衆生の愛楽するところなり。このゆえにまた「月愛三昧」と名づく、と。乃至 その時に、仏、もろもろの大衆に告げて言わく、一切衆生、阿耨多羅三藐三菩提に近づく因縁のためには、善友を先とするにはしかず。何をもってのゆえに。阿闍世王、もし耆婆の語に随順せずは、来月の七日、必定して命終して阿鼻獄に堕せん。このゆえに日に近づきにたり、善友にしくことなかれ。阿闍世王また前路において聞く、「舎婆提に毘瑠璃王、船に乗じて海辺に入りて、災して死ぬ。瞿伽離比丘、生身に、地に入りて阿鼻獄に至れり。須那刹多は、種種の悪を作りしかども、仏所に到りて衆罪消滅しぬ」と。この語を聞き已りて、耆婆に語りて言わく、吾今かくのごときの二つの語を聞くといえども、なお未だ審かならず。定んで汝来れり、耆婆、吾、汝と同じく一象に載らんと欲う。たとい我当に阿鼻地獄に入るべくとも、冀わくは汝捉持して、我をして堕さしめざれと。何をもってのゆえに。吾昔かつて聞きき、得道の人は地獄に入らず、と。乃至 (仏、阿闍世に告げたまわく)云何ぞ説きて定んで地獄に入ると言わん。大王、一切衆生の所作の罪業におよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るは、すなわち名づけて「軽」とす。身と口と心とに作るは、すなわち名づけて「重」とすと。大王、心に念い口に説きて身に作さざれば、得るところの報、軽なり。大王、むかし口に殺せよと勅せず、ただ「足を削れ」と言えりき。大王、もし侍臣に勅せましかば、立ちどころに王の首を斬らまし。坐の時にすなわち斬るとも、なお罪を得じ。いわんや王勅せず、云何ぞ罪を得ん。王もし罪を得ば、諸仏世尊もまた罪を得たまうべし。何をもってのゆえに。汝が父、先王頻婆沙羅、常に諸仏においてもろもろの善根を種えたりき。このゆえに今日王位に居することを得たり。諸仏もしその供養を受けたまわざらましかば、すなわち王たらざらまし。もし王たらざらましかば、汝すなわち国のために害を生ずることを得ざらまし、と。もし汝父を殺して当に罪あるべくは、我等諸仏また罪ましますべし。もし諸仏世尊、罪を得たまうことなくは、汝独り云何ぞ罪を得んや。大王、頻婆沙羅むかし悪心ありて、毘富羅山にして遊行し、鹿を射猟して曠野に周遍しき、ことごとく得るところなし。ただ一の仙の五通具足せるを見る。見已りてすなわち瞋恚悪心を生じき。「我今遊猟す、得ざる所以は、正しくこの人の駆逐して去らしむるに坐る」と。すなわち左右に勅してこれを殺せしむ。その人、終わりに臨みて瞋って悪心を生ず。神通を退失して、しかして誓言を作さく、「我実に辜なし。汝、心口をもって横に戮害を加す。我来世において、また当にかくのごとく還りて心口をもってして汝を害すべし」と。時に王聞き已りて、すなわち悔心を生じて死屍を供養しき。先王かくのごとく、なお軽く受くることを得て、地獄に堕ちず。いわんや王、しからずして当に地獄の果報を受くべけんや。先王自ら作りて還りて自らこれを受く。いかんぞ王をして殺罪を得しめん。王の言うところのごとし。父の王辜なくは、大王いかんぞ失なきに罪ありと言わば、すなわち罪報あらん。悪業なくは、すなわち罪報なけん。汝が父先王、もし辜罪なくは、いかんぞ報あらん。頻婆沙羅、現世の中において、また善果および悪果を得たり。このゆえに先王また不定なり。不定をもってのゆえに、殺もまた不定なり。殺不定ならば、云何してか定んで地獄に入ると言わんと。大王、衆生の狂惑におよそ四種あり。一つには貪狂、二つには薬狂、三つには呪狂、四つには本業縁狂なり。大王、我が弟子の中にこの四狂あり。多く悪を作るといえども、我ついにこの人戒を犯せりと記せず。この人の所作、三悪に至らず。もし還りて心を得ば、また犯と言わず。王、本国を貪してこれ父の王を逆害す。貪狂の心をもって与に作せり。いかんぞ罪を得ん。大王、人耽酔してその母を逆害せん、すでに醒悟し已りて心に悔恨を生ぜんがごとし。当に知るべし。この業もまた報を得じ。王今貪酔せり。本心の作せるにあらず。もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや。大王、たとえば幻師の、四衢道の頭にして種種の男女・象馬・瓔珞・衣服を幻作するがごとし。愚痴の人は謂うて真実とす。有智の人は真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と思えり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、たとえば山谷の響の声のごとし。愚痴の人はこれを実の声と謂えり、有智の人はそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂えり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人の怨あるが詐り来りて親附するがごとし。愚痴の人は謂うて実に親しむとす、智者は了達すなわちそれ虚しく詐れりと知る。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂う、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人、鏡を執りて自ら面像を見るがごとし。愚痴の人は謂うて真の面とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂う、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、熱の時の炎のごとし。愚痴の人はこれはこれ水と謂わん、智者は了達してそれ水にあらずと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂わん、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、乾闥婆城のごとし。愚痴の人は謂うて真実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂えり、諸仏世尊はそれ真にあらずと了知せしめたまえり。大王、人の夢の中に五欲の楽を受くるがごとし。愚痴の人はこれを謂うて実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂えり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、殺法・殺業・殺者・殺果および解脱、我みなこれを了れり、すなわち罪あることなけん。王、殺を知るといえども、いかんぞ罪あらんや。大王、たとえば人主ありて酒を典れりと知れども、もしそれ飲まざればすなわちまた酔わざるがごとし。また火と知るといえども焼燃せず。王もまたかくのごとし。また殺を知るといえども云何ぞ罪あらんや。大王、もろもろの衆生ありて、日の出ずる時において種種の罪を作る、月の出ずる時においてまた劫盗を行ぜん。日月出でざるに、すなわち罪を作らず。日月に因ってそれ罪を作らしむるといえども、しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。乃至

大王、たとえば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといえども、慙愧の人はすなわちすなわち非有とす。無慙愧の人はすなわち非無とす。果報を受くる者、これを名づけて「有」とす。空見の人は、すなわち「非有」とす。有見の人は、すなわち「非無」とす。有有見の者は、また名づけて「有」とす。何をもってのゆえに、有有見の者は果報を得るがゆえに、無有見の者はすなわち果報なし。常見の人はすなわち「非有」とす。無常見の者はすなわち「非無」とす。常常見の者は「無」とすることを得ず。何をもってのゆえに、常常見の者は悪業果あるがゆえに、このゆえに常常見の者は「無」とすることを得ず。この義をもってのゆえに、非有非無にしてまたこれ有なりといえども、大王、それ「衆生」は出入の息に名づく、出入の息を断つがゆえに、名づけて「殺」とす。諸仏、俗に随いて、また説きて「殺」とす。乃至

(王、仏に白さく)世尊、我世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず、伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。我今始めて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。「伊蘭子」は、我が身これなり。「栴檀樹」は、すなわちこれ我が心、無根の信なり。「無根」は、我初めて如来を恭敬せんことを知らず、法・僧を信ぜず、これを「無根」と名づく。世尊、我もし如来世尊に遇わずは、当に無量阿僧祇劫において、大地獄に在りて無量の苦を受くべし。我今仏を見たてまつる。これ仏を見るをもって得るところの功徳、衆生の煩悩悪心を破壊せしむ、と。仏の言わく、「大王、善いかな、善いかな、我いま、汝必ずよく衆生の悪心を破壊することを知れり。」「世尊、もし我審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず。」その時に摩伽陀国の無量の人民、ことごとく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。かくのごときらの無量の人民、大心を発するをもってのゆえに、阿闍世王所有の重罪、すなわち微薄なることを得しむ。王および夫人、後宮・采女、ことごとくみな同じく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。その時に阿闍世王、耆婆に語りて言わまく、耆婆、我いま未だ死せざるにすでに天身を得たり。短命を捨てて長命を得、無常の身を捨てて常身を得たり。もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむ。乃至

諸仏の弟子、この語を説き已りて、すなわち種種の宝幢をもって、乃至 また偈頌をもって讃嘆して言さく、

実語はなはだ微妙なり、

善巧、句義において

甚深秘密の蔵なり、

衆のためのゆえに、

所有広博の言を、顕示す。

衆のためのゆえに略して説かく、

かくのごときの語を具足して、

よく衆生を療す。

もしもろもろの衆生ありて、

この語を聞くことを得る者は、

もしは信および不信、

定んでこの仏説を知らん。

諸仏常に軟語をもって、

衆のためのゆえに麁を説きたまう。

麁語および軟語、

みな第一義に帰せん。

このゆえに我いま、

世尊に帰依したてまつる。

如来の語は一味なること、

なお大海の水のごとし。

これを第一諦と名づく。

かるがゆえに無無義の語にして、

如来いま説きたまうところの

種種の無量の法、

男女・大小、聞きて、

同じく第一義を獲しめん。

無因また無果なり、無生また無滅なり、

これを「大涅槃」と名づく。

聞く者、諸結を破す。

如来、一切のために、

常に慈父母と作りたまえり。

当に知るべし、もろもろの衆生は、

みなこれ如来の子なり。

世尊大慈悲は、

衆のために苦行を修したまうこと、

人の鬼魅に着わされて、

狂乱して所為多きがごとし。

我いま仏を見たてまつることを得たり。

得るところの三業の善、

願わくはこの功徳をもって、

無上道に回向せん。

我いま供養するところの

仏・法および衆僧、

願わくはこの功徳をもって、

三宝常に世にましまさん。

我いま当に獲べきところの

種種のもろもろの功徳、

願わくはこれをもって、

衆生の四種の魔を破壊せん。

我悪知識に遇うて、

三世の罪を造作せり。

いま仏前にして悔ゆ、

願わくは後にまた造ることなからん。

願わくはもろもろの衆生、等しく

ことごとく菩提心を発せしむ。

心を繫けて常に、

十方一切仏を思念せん。

また願わくはもろもろの衆生、

永くもろもろの煩悩を破し、

了了に仏性を見ること、

猶妙徳のごとくして等しからん、と。

その時に、世尊、阿闍世王を讃めたまわく、「善いかな、善いかな、もし人ありてよく菩提心を発せん。当に知るべし、この人はすなわち諸仏大衆を荘厳すとす。大王、汝昔すでに毘婆尸仏のみもとにして、初めて阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。これより已来、我が出世に至るまで、その中間において、未だかつてまた地獄に堕して苦を受けず。大王、当に知るべし、菩提の心はいましかくのごとき無量の果報あり。大王、今より已往に、常に当に菩提の心を懃修すべし。何をもってのゆえに。この因縁に従って、当に無量の悪を消滅することを得べきがゆえなり。」その時に阿闍世王および摩伽陀国の人民挙って座よりして起ちて仏を遶ること三帀して、辞退して宮に還りにき、と。已上抄出

143(迦葉品)また言わく、善男子、羅閲祇の王頻婆沙羅、その王の太子、名づけて「善見」と曰う。業因縁のゆえに悪逆の心を生じて、その父を害せんとするに便りを得ず。その時に悪人提婆達多、また過去の業因縁に因るがゆえに、また我が所において不善の心を生じて、我を害せんとす。すなわち五通を修して、久しからずして、善見太子と共に親厚たることを獲得せり。太子のためのゆえに、種種の神通の事を現作す。門にあらざるより出でて門よりして入りて、門よりして出でて門にあらざるよりして入る。ある時は象馬・牛羊・男女の身を示現す。善見太子見已りて、すなわち愛心・喜心・敬信の心を生ず。これを本とするがゆえに、厳しく種種の供養の具を説きて、これを供養す。また白して言さく、大師聖人、我いま曼陀羅華を見んと欲う、と。時に提婆達多、すなわち法として三十三天に至りて、かの天人に従うてこれを求索するに、その福尽くるがゆえにすべて与うる者なし。すでに華を得ず。この思惟を作さく、曼陀羅樹は我・我所なし、もし自ら取らんに当に何の罪かあるべき。すなわち前んで取らんと欲するに、すなわち神通を失えり。還りて己身を見れば王舎城にあり。心に慙愧を生ずるに、また善見太子を見ることあたわず。またこの念を作さく、我いま当に如来の所に往至して、大衆を求索すべし、と。仏もし聴さば、我当に意に随いて、教えてすなわち舎利弗等に詔勅すべし、と。その時に提婆達多、すなわち我が所に来たりてかくのごときの言を作さく、唯願わくは如来、この大衆をもって我に付嘱せよ、我当に種種に法を説きて、教化してそれをして調伏せしむべし、と。我、痴人に言わく、舎利弗等、大智を聴聞して、世に信伏するところなり、我なお大衆をもって付嘱せじ。いわんや汝痴人、唾を食らう者をや、と。時に提婆達多、また我が所においてますます悪心を生じて、かくのごときの言を作さく、瞿曇、汝いままた大衆を調伏すといえども、勢また久しからじ。当に見に磨滅すべし、と。この語を作し已るに、大地即時に六反震動す。提婆達多、すなわちの時に地に躄れて、その身の辺より大暴風を出だして、もろもろの塵土を吹きてこれを汚坌す。提婆達多悪相を見已りて、またこの言を作さく、もし我、この身、現世に必ず阿鼻地獄に入らば、我が悪、当にかくのごときの大悪を報うべし、と。時に提婆達多、すなわち起ちて、善見太子の所に往至す。善見見已りてすなわち聖人に問わく、何がゆえぞ、顔容憔悴して憂の色あるや、と。提婆達多言わく、我常にかくのごとし、汝知らずや、と。善見答えて言わく、願わくはその意を説くべし。何の因縁あってか爾る、と。提婆達の言わく、我いま汝がために極めて親愛を成す。外人汝を罵りて、もって非理とす。我この事を聞くに、あに憂えざることを得んや、と。善見太子、またこの言を作さく、国の人、いかんぞ我を罵辱する、と。提婆達の言わく、国の人汝を罵りて「未生怨」とす。善見また言わく、何がゆえぞ我を名づけて「未生怨」とする。誰かこの名を作す、と。提婆達の言わく、汝未だ生まれざりし時、一切相師みなこの言を作さく、この児生まれ已りて当にその父を殺すべし、と。このゆえに外人みなことごとく、汝を号して「未生怨」とす。一切内の人、汝が心を護るがゆえに、謂うて「善見」とす。毘提夫人この語を聞き已りて、すでに汝を生まんとして、身を高楼の上より、これを地に棄てしに、汝が一の指を壊れり。この因縁をもって、人また汝を号して「婆羅留枝」とす。我これを聞き已りて、心に愁憤を生じてまた汝に向かいてこれを説くことあたわず。提婆達多、かくのごときらの種種の悪事をもって、教えて父を殺せしむ。もし汝が父死せば、我またよく瞿曇沙門を殺せん、と。善見太子、一の大臣に問わく、名づけて「雨行」と曰う。大王何がゆえぞ我が字を立てんとするに「未生怨」と作るや、と。大臣すなわちためにその本末を説く、提婆達の所説のごとくして異なけん。善見聞き已りて、すなわち大臣とともにその父の王を収って、これを城の外に閉ず、四種の兵をもって、これを守衛せしむ。毘提夫人、この事を聞き已りてすなわち王の所に至る。時に王を守りて、人をして遮りて入ることを聴さず。その時に夫人、瞋恚の心を生じて、すなわちこれを呵罵す。時にもろもろの守人、すなわち太子に告ぐらく、大王の夫人、父の王を見んと欲うをば、不審、聴してんや不や、と。善見聞き已りてまた瞋嫌を生じて、すなわち母の所に往きて、前んで母の髪を牽きて、刀を抜きて斫らんとす。その時に耆婆白して言さく、大王、国を有ってより已来、罪極めて重しといえども、女人に及ばず、いわんや所生の母をや、と。善見太子、この語を聞き已りて、耆婆のためのゆえにすなわち放捨して、遮りて大王の衣服・臥具・飲食・湯薬を断つ。七日を過ぎ已るに、王の命すなわち終わりぬと。善見太子、父の喪を見已りて、方に悔心を生ず。雨行大臣、また種種の悪邪の法をもって、ためにこれを説く、大王、一切の業行すべて罪あることなし。何がゆえぞいま悔心を生ずるや、と。耆婆また言わく、大王、当に知るべし。かくのごときの業は、罪業二重なり。一つには父の王を殺す、二つには須陀洹を殺せり。かくのごときの罪は、仏を除きてさらによく除滅したまう者ましまさず、と。善見王言わく、「如来は清浄にして穢濁ましますことなし。我等罪人いかんしてか見たてまつることを得ん。」善男子、我この事を知らんと。阿難に告げたまわく、三月を過ぎ已りて吾当に涅槃すべきがゆえに、と。善見聞き已りて、すなわち我が所に来れり。我ために法を説きて、重罪をして薄きことを得しめ、無根の信を獲しむ。善男子、我がもろもろの弟子この説を聞き已りて、我が意を解らざるがゆえに、この言を作さく、「如来定んで畢竟涅槃を説きたまえり。」善男子、菩薩に二種あり、一つには実義、二つには仮名なり。仮名の菩薩、「我三月あって当に涅槃に入るべし」と聞きて、みな退心を生じてこの言を作さく、「もしそれ如来無常にして住したまわずは、我等いかがせん。この事のためのゆえに、無量世の中に大苦悩を受けき。如来世尊は無量の功徳を成就し具足したまいて、なお壊することあたわず、かくのごときの死魔をや。いわんや我等が輩、当によく壊すべけんや。」善男子、このゆえに我かくのごとき菩薩のためにして、この言を作さく、「如来は常住にして変易あることなし。」我がもろもろの弟子、この説を聞き已りて我が意を解らざれば、定んで言わく、如来は終に畢竟じて涅槃に入りたまわず、と。已上抄出

144ここをもって、今大聖の真説に拠るに、難化の三機・難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまう。たとえば醍醐の妙薬の一切の病を療するがごとし。濁世の庶類・穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと。知るべし。

145それ諸大乗に拠るに、難化の機を説けり。今『大経』には「唯除五逆誹謗正法」と言い、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及誹謗聖人」(如来会)と言えり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には、難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。

146報えて道わく、『論の註』に曰わく、問うて曰わく、『無量寿経』に言わく、「往生を願ぜん者みな往生を得しむ。唯五逆と誹謗正法とを除く」と。『観無量寿経』に、「五逆・十悪もろもろの不善を具せるもの、また往生を得」と言えり。この二経云何が会せんや。答えて曰わく、一経には二種の重罪を具するをもってなり。一つには五逆、二つには誹謗正法なり。この二種の罪をもってのゆえに、このゆえに往生を得ず。一経はただ、十悪・五逆等の罪を作ると言うて、「正法を誹謗す」と言わず。正法を謗せざるをもってのゆえに、このゆえに生を得しむ、と。

問うて曰わく、たとい一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、『経』に得生を許す。また一人ありて、ただ正法を誹謗して五逆もろもろの罪なきもの、往生を願ぜば、生を得るやいなや。答えて曰わく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといえども、必ず生を得じ。何をもってこれを言わば、『経』(大品般若経信毀品意)に言わく、「五逆の罪人、阿鼻大地獄の中に堕して、具に一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は、阿鼻大地獄の中に堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄の中に至る。かくのごとく展転して、百千の阿鼻大地獄を径。」仏出ずることを得る時節を記したまわず、誹謗正法の罪極重なるをもってのゆえなり。また正法はすなわちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず。いずくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たといただかの安楽に生まるることを貪して生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし、あに得る理あらんや。

問うて曰わく、何等の相かこれ誹謗正法なるや。答えて曰わく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法と言わん、かくのごときらの見をもって、もしは心に自ら解り、もしは他に従いて、その心を受けて決定するを、みな「誹謗正法」と名づく、と。

問うて曰わく、かくのごときらの計は、ただこれ己が事なり、衆生において何の苦悩あればか、五逆の重罪に踰えんや。答えて曰わく、もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん。汝ただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆえに謗正法の人はその罪もっとも重なり、と。

問うて曰わく、『業道経』に言わく、「業道は称のごとし、重き者先ず牽く」と。『観無量寿経』に言うがごとし。「人ありて五逆・十悪を造り、もろもろの不善を具せらん。悪道に堕して多劫を径歴して無量の苦を受くべし。命終の時に臨みて、善知識教えて南無無量寿仏を称せしむるに遇わん。かくのごとき心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足すれば、すなわち安楽浄土に往生することを得て、すなわち大乗正定の聚に入りて、畢竟じて不退ならん、三塗のもろもろの苦と永く隔つ。」「先ず牽く」の義、理においていかんぞ。また曠劫より已来備にもろもろの行を造れる、有漏の法は三界に繫属せり。ただ十念をもって阿弥陀仏を念じてすなわち三界を出でば、繫業の義、また云何がせんとするや。答えて曰わく、汝、五逆・十悪・繫業等を重とし、下下品の人の十念をもって軽として、罪のために牽かれて先ず地獄に堕して、三界に繫在すべしと謂わば、今当に義をもって、軽重の義を校量すべし。心に在り、縁に在り、決定に在り、時節の久近・多少に在るにはあらざるなり。いかんが心に在る、と。かの罪を造る人は、自らが虚妄顛倒の見に依止して生ず。この十念は、善知識、方便安慰して実相の法を聞かしむるに依って生ず。一は実、一は虚なり、あに相比ぶることを得んや。たとえば千歳の闇室に、光もししばらく至ればすなわち明朗なるがごとし。闇あに室にあること千歳にして去らじと言うことを得んや。これを「在心」と名づく。いかんが縁に在る、と。かの罪を造る人は、自らが妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の衆生に依って生ず。この十念は、無上の信心に依止し、阿弥陀如来の方便荘厳・真実清浄・無量功徳の名号に依って生ず。たとえば人ありて毒の箭を被りて中るところ筋を截り骨を破るに、滅除薬の鼓を聞けばすなわち箭出け毒除こるがごとし。『首楞厳経』に言わく、たとえば薬あり、名づけて滅除と曰う。もし闘戦の時にもって鼓に塗るに、鼓の声を聞く者、箭出け毒除こるがごとし。菩薩摩訶薩もまたかくのごとし、首楞厳三昧に住してその名を聞く者、三毒の箭、自然に抜出すと。あに「かの箭深く毒厲しからん、鼓の音声を聞くとも箭を抜き毒を去ることあたわじ」と言うことを得べけんや。これを「在縁」と名づく。いかんが決定に在ると。かの罪を造る人は、有後心・有間心に依止して生ず。この十念は、無後心・無間心に依止して生ず。これを「決定」と名づく。三つの義を校量するに、十念は重なり。重き者先ず牽きて、よく三有を出ず。両経一義なるならくのみ、と。

問うて曰わく、幾ばくの時をか、名づけて「一念」とするや。答えて曰わく、百一の生滅を「一刹那」と名づく。六十の刹那を名づけて「一念」とす。この中に「念」と云うは、この時節を取らざるなり。ただ阿弥陀仏を憶念して、もしは総相・もしは別相、所観の縁に随いて、心に他想なくして十念相続するを、名づけて「十念」とすと言うなり。ただし名号を称することも、またかくのごとし。

問うて曰わく、心もし他縁せば、これを摂して還らしめて、念の多少を知るべし。ただ多少を知らば、また間なきにあらず。もし心を凝らし譏想を注めば、また何に依ってか念の多少を記することを得べきや。答えて曰わく、『経』に「十念」と言うは、業事成弁を明かすならくのみと。必ずしも須らく頭数を知るべからざるなり。蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや、と言うがごとし。知る者これを言うならくのみと。「十念業成」とは、これまた神に通ずる者、これを言うならくのみと。ただ念を積み相続して、他事を縁ぜざればすなわち罷みぬ、また何ぞ仮に念の頭数を知ることを須いんや。もし必ず知ることを須いば、また方便あり、必ず口授を須いよ、これを筆点に題することを得ざれ、と。已上

147(散善義)光明寺の和尚云わく、問うて曰わく、四十八願の中のごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて往生を得しめず。今この『観経』の下品下生の中には、誹謗を簡いて五逆を摂するは、何の意かあるや。答えて曰わく、この義仰いで抑止門の中について解す。四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるにはあらざるなり。また下品下生の中に、五逆を取りて謗法を除くことは、それ五逆は已に作れり、捨てて流転せしむべからず、還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、また止めて「もし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じ」と言う。これは未造業について解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。彼に生を得といえども、華合して多劫を径ん。これらの罪人、華の内にある時、三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖衆を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じと。これを除きて已外は、さらにもろもろの苦なけん。『経』(悲華経)に云わく、「なお比丘の三禅の楽に入るがごときなり」と。知るべし。華の中にありて、多劫開けずといえども、阿鼻地獄の中にして、長時永劫にもろもろの苦痛を受けんに勝れざるべけんや。この義、抑止門について解し竟りぬ、と。已上

148(法事讃)また云わく、永く譏嫌を絶ち、等しくして憂悩なし。人天、善悪、みな往くことを得。彼に到りて殊ることなし、斉同不退なり。何の意か然るとならば、いまし弥陀の因地にして、世饒王仏の所にして、位を捨てて家を出ず、すなわち悲智の心を起こして、広く四十八願を弘めしめたまいしに由ってなり。仏願力をもって、五逆と十悪と、罪滅し生を得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く、と。抄出

149「五逆」と言うは、もし淄州に依るに、五逆に二つあり。

一つには三乗の五逆なり。いわく、一つにはことさらに思いて父を殺す、二つにはことさらに思いて母を殺す、三つにはことさらに思いて羅漢を殺す、四つには倒見して和合僧を破す、五つには悪心をもって仏身より血を出だす。恩田に背き福田に違するをもってのゆえに、これを名づけて「逆」とす。この逆を執する者は、身壊れ命終えて、必定して無間地獄に堕して、一大劫の中に無間の苦を受けん、「無間業」と名づくと。

また『倶舎論』の中に、五無間の同類の業あり。かの頌に云わく、「母・無学尼を汚す 母を殺す罪の同類、住定菩薩 父を殺す罪の同類、および有学・無学 羅漢を殺す同類を殺す、僧の和合縁を奪う 破僧罪の同類、卒都波を破壊する 仏身より血を出だす。」

二つには大乗の五逆なり。『薩遮尼乾子経』に説くがごとし。一つには、塔を破壊し経蔵を焚焼する、および三宝の財物を盗用する。二つには、三乗の法を謗りて聖教にあらずと言うて、障破留難し、隠蔽覆蔵する。三つには、一切出家の人、もしは戒・無戒・破戒のものを打罵し呵責して、過を説き禁閉し、還俗せしめ、駆使債調し断命せしむる。四つには、父を殺し、母を害し、仏身より血を出だし、和合僧を破し、阿羅漢を殺すなり。五つには、謗じて因果なく、長夜に常に十不善業を行ずるなり、と。已上 かの『経』(十輪経)に云わく、一つには不善心を起こして独覚を殺害する、これ殺生なり。二つには羅漢の尼を婬する、これを邪行と云うなり。三つには所施の三宝物を侵損する、これ不与取なり。四つには倒見して和合僧衆を破する、これ虚誑語なり。略出

 

顕浄土真実信文類三

 

顕浄土真実証文類四

     必至滅度の願

     難思議往生

 

顕浄土真実証文類四

愚禿釈親鸞集

1謹んで真実証を顕さば、すなわちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。2すなわちこれ必至滅度の願より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。3しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。必ず滅度に至るは、すなわちこれ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなわちこれ無為法身なり。無為法身はすなわちこれ実相なり。実相はすなわちこれ法性なり。法性はすなわちこれ真如なり。真如はすなわちこれ一如なり。4しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化種種の身を示し現わしたまうなり。

5必至滅度の願文、『大経』に言わく、設い我仏を得たらんに、国の中の人天、定聚に住し、必ず滅度に至らずは、正覚を取らじ、と。已上

6『無量寿如来会』に言わく、もし我成仏せんに、国の中の有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ、と。已上

7願成就の文、『経』に言わく、それ衆生ありて、かの国に生まるれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中にはもろもろの邪聚および不定聚なければなり、と。

8また言わく、かの仏国土は、清浄安穏にして微妙快楽なり。無為泥洹の道に次し。それもろもろの声聞・菩薩・天・人、智慧高明にして神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形異状なし。ただ余方に因順するがゆえに、人・天の名あり。顔貌端政にして世に超えて希有なり。容色微妙にして天にあらず人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたるなり、と。

9(如来会)また言わく、かの国の衆生、もしは当に生まれん者、みなことごとく無上菩提を究竟し、涅槃の処に到らしめん。何をもってのゆえに。もし邪定聚および不定聚は、かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえなり、と。已上、要を抄す。

10『浄土論』(論註)に曰わく、「荘厳妙声功徳成就」は、「偈」に「梵声悟深遠 微妙聞十方」のゆえにと言えりと。これいかんぞ不思議なるや。『経』に言わく、「もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生まれんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなわち正定聚に入る。」これはこれ国土の名字仏事をなす、いずくんぞ思議すべきや、と。

11「荘厳主功徳成就」は、「偈」に「正覚阿弥陀 法王善住持」のゆえにと言えり。これいかんが不思議なるや。正覚の阿弥陀、不可思議にまします。かの安楽浄土は正覚阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べきや。「住」は不異不滅に名づく、「持」は不散不失に名づく。不朽薬をもって種子に塗りて、水に在くに蘭れず、火に在くに燋がれず、因縁を得てすなわち生ずるがごとし。何をもってのゆえに。不朽薬の力なるがゆえなり。もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に意「三界に生まれて衆生を教化せん」と願じて、浄土の命を捨てて願に随いて生を得て、三界雑生の火の中に生まるといえども、無上菩提の種子畢竟じて朽ちず。何をもってのゆえに。正覚阿弥陀の善く住持を径るをもってのゆえにと。

12「荘厳眷属功徳成就」は、「偈」に「如来浄華衆 正覚華化生」のゆえにと言えり。これいかんぞ不思議なるや。おおよそこの雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属若干なり、苦楽万品なり、雑業をもってのゆえに。かの安楽国土は、これ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆえに。遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり。眷属無量なり。いずくんぞ思議すべきや。

13また言わく、往生を願う者、本はすなわち三三の品なれども、今は一二の殊なし。また淄澠食陵の反の一味なるがごとし。いずくんぞ思議すべきや。

14また『論』(論註)に曰わく、「荘厳清浄功徳成就」は、「偈」に「観彼世界相 勝過三界道」のゆえにと言えり。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生まるることを得れば、三界の繫業畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得、いずくんぞ思議すべきや。已上抄要

15『安楽集』に云わく、しかるに二仏の神力、また斉等なるべし。ただ釈迦如来己が能を申べずして、故にかの長ぜるを顕したまうことは、一切衆生をして斉しく帰せざることなからしめんと欲してなり。このゆえに釈迦、処処に嘆帰せしめたまえり。須らくこの意を知るべしとなり。このゆえに曇鸞法師の正意、西に帰るがゆえに、『大経』に傍えて奉讃して曰わく、「安楽の声聞・菩薩衆・人天、智慧ことごとく洞達せり。身相荘厳殊異なし。ただ他方に順ずるがゆえに名を列ぬ。顔容端政にして比ぶべきなし。精微妙躯にして人天にあらず、虚無の身、無極の体なり。このゆえに平等力を頂礼したてまつる」(讃弥陀偈)と。已上

16光明寺の『疏』(玄義分)に云わく、「弘願」と言うは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生を得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせざるはなしとなり。また仏の密意弘深なれば、教門をして暁りがたし。三賢十聖測りて闚うところにあらず。況や我信外の軽毛なり。あえて旨趣を知らんや。仰ぎて惟みれば、釈迦はこの方にして発遣し、弥陀はすなわちかの国より来迎す。彼に喚ばい此に遣わす。あに去かざるべけんや。ただねんごろに法に奉えて、畢命を期として、この穢身を捨てて、すなわちかの法性の常楽を証すべし、と。

17(定善義)また云わく、西方寂静無為の楽には、畢竟逍遥して、有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なることなし。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る。変現の荘厳意に随いて出ず。群生見る者、罪みな除こる、と。また賛じて云わく、帰去来、魔郷に停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、尽くみな径たり。いたるところに余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らん、と。已上

18それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。かるがゆえに、もしは因もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえるところにあらざることあることなし。因浄なるがゆえに、果また浄なり。知るべしとなり。

19二つに還相の回向と言うは、すなわちこれ利他教化地の益なり。20すなわちこれ「必至補処の願」より出でたり。21また「一生補処の願」と名づく。また「還相回向の願」と名づくべきなり。22『註論』に顕れたり。かるがゆえに願文を出ださず。『論の註』を披くべし。

23『浄土論』に曰わく、「出第五門」とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを「出第五門」と名づく、と。已上

24『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(論)と言えりと。

25また言わく、「すなわちかの仏を見れば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆえに」とのたまえり。「平等法身」とは、八地已上の法性生身の菩薩なり。(「寂滅平等」とはすなわちこの法身の菩薩の所証の)寂滅平等の法なり。この寂滅平等の法を得るをもってのゆえに、名づけて「平等法身」とす。平等法身の菩薩の所得なるをもってのゆえに、名づけて「寂滅平等の法」とするなり。この菩薩は報生三昧を得。三昧神力をもって、よく一処、一念、一時に十方世界に遍じて、種種に一切諸仏および諸仏大会衆海を供養す。善く無量世界に仏法僧ましまさぬところにして、種種に示現し、種種に一切衆生を教化し度脱して、常に仏事を作す。初めに往来の想・供養の想・度脱の想なし。このゆえにこの身を名づけて「平等法身」とす。この法を名づけて「寂滅平等の法」とす。「未証浄心の菩薩」とは、初地已上七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩、またよく身を現ずること、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作す。かならず心を作して三昧に入りて、いましよく作心せざるにあらず。作心をもってのゆえに、名づけて「未証浄心」とす。この菩薩、安楽浄土に生まれて、すなわち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見るとき、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて身等しく法等し、と。龍樹菩薩・婆薮般豆菩薩の輩、彼に生まれんと願ずるは、当にこのためなるべしならくのみと。問うて曰わく、『十地経』を案ずるに、菩薩の進趣階級、ようやく無量の功勲あり。多くの劫数を径。しこうして後、いましこれを得。いかんぞ阿弥陀仏を見たてまつる時、畢竟じて上地のもろもろの菩薩と身等しく法等しきや。答えて曰わく、畢竟とは、未だすなわち等しというにはあらずとなり、と。畢竟じてこの等しきことを失せざるがゆえに、等しと言うならくのみ、と。問うて曰わく、もしすなわち等しからずは、また何ぞ菩薩と言うことを得ん。ただ初地に登れば、もってようやく増進して、自然に当に仏と等しかるべし。何ぞ仮に上地の菩薩と等しと言うや。答えて曰わく、菩薩七地の中にして大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんとす。その時にもし十方諸仏の神力加勧を得ずは、すなわち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなわちこの難なけん。このゆえに須らく畢竟平等と言うべし。また次に『無量寿経』の中に、阿弥陀如来の本願に言わく、「設い我仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじ」と。この『経』を案じて、かの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。「十地の階次」というは、これ釈迦如来、閻浮提にして、一つの応化道ならくのみ、と。他方の浄土は、何ぞ必ずしもかくのごとくせん。五種の不思議の中に、仏法最も不可思議なり。もし「菩薩必ず一地より一地に至りて、超越の理なし」と言わば、未だ敢えて詳らかならざるなり。譬えば樹あり、名づけて好堅と曰う。この樹、地より生じて百歳ならん。いまし具に一日に長高なること百丈なるがごとし。日日にかくのごとし。百歳の長を計るに、あに修松に類せんや。松の生長するを見るに、日に寸を過ぎず。かの好堅を聞きて、何ぞよく即日を疑わざらん。人ありて、釈迦如来、羅漢を一聴に証し、無生を終朝に制すとのたまえるを聞きて、これ接誘の言にして、称実の説にあらずと謂えり。この論事を聞きて、また当に信ぜざるべし。それ非常の言は常人の耳に入らず。これをしからずと謂えり。またそれ宜しかるべきなり。「略して八句を説きて、如来の自利利他の功徳荘厳、次第に成就したまえるを示現したまえるなりと、知るべし」(論)。これはいかんが次第なるとならば、前の十七句は、これ荘厳国土の功徳成就なり。既に国土の相を知んぬ。国土の主を知るべし。このゆえに次に仏荘厳功徳を観ず。かの仏もし荘厳をなして、いずれの処にしてか座すると。このゆえにまず座を観ずべし。既に座を知りぬ。すでに宜しく座主を知るべし。このゆえに次に仏、身業を荘厳したまえるを観ず。既に身業を知りぬ。いかなる声名かましますと知るべし。このゆえに次に仏、口業を荘厳したまえるを観ず。既に名聞を知りぬ。宜しく得名の所以を知るべし。このゆえに次に仏の心業を荘厳したまえるを観ず。既に三業具足したまえるを知りぬ。人天の大師となって化を受くるに堪えたる者は、これ誰ぞと知るべし。このゆえに次に大衆の功徳を観ず。既に大衆、無量の功徳いますことを知りぬ。宜しく上首は誰ぞと知るべし。このゆえに次に上首を観ず。上首はこれ仏なり。既に上首恐らくは長幼に同じきことを知りぬ。このゆえに次に主を観ず。既にこの主を知りぬ。主いかなる増上かましますと。このゆえに次に荘厳不虚作住持を観ず。八句の次第成ぜるなり。菩薩を観ぜば、「いかんが菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を観察せば、かの菩薩を観ずるに、四種の正修行功徳成就したまえることありと、知るべし」(論)。真如はこれ諸法の正体なり。体、如にして行ずれば、すなわちこれ不行なり。不行にして行ずるを、如実修行と名づく。体はただ一如にして、義をして分かちて四とす。このゆえに四行、一をもって正しくこれを絯ぬ。「何ものをか四とする。一には、一仏土において身動揺せずして十方に遍す。種種に応化して実のごとく修行して、常に仏事を作す。「偈」に「安楽国は清浄にして、常に無垢の輪を転ず。化仏菩薩は、日の須弥に住持するがごときのゆえに」と言えり。もろもろの衆生の淤泥華を開くがゆえに」(論)とのたまえり。八地已上の菩薩は、常に三昧にありて、三昧力をもって、身本処を動ぜずしてよく遍く十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化す。「無垢輪」とは仏地の功徳なり。仏地の功徳は、習気・煩悩の垢ましまさず。仏、もろもろの菩薩のために常にこの法輪を転ず。もろもろの大菩薩、またよくこの法輪をもって、一切を開導して暫時も休息なけん。かるがゆえに常転と言う。法身は日のごとくして、応化身の光、もろもろの世界に遍ずるなり。「日」と言わば、未だもって不動を明かすに足らざれば、また如須弥住持と言うなり。「淤泥華」とは『経』(維摩経)に言わく、「高原の陸地には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥に、いまし蓮華を生ず。」これは、凡夫煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩う。諒にそれ三宝を紹隆して常に絶えざらしむと。「二には、かの応化身、一切の時、前ならず後ならず、一心一念に、大光明を放ちて、ことごとくよく遍く十方世界に至りて、衆生を教化す。種種に方便し、修行所作して、一切衆生の苦を滅除するがゆえに。「偈」に「無垢荘厳の光、一念および一時に、普く諸仏の会を照らして、もろもろの群生を利益するゆえに」と言えり」(論)。上に「不動にして至る」と言えり。あるいは至るに前後あるべし。このゆえにまた「一念一時無前無後」と言えるなり。「三には、かれ一切の世界において、余なくもろもろの仏会を照らす。大衆余なく広大無量にして、諸仏如来の功徳を供養し恭敬し讃嘆す。「偈」に「天の楽・華・衣・妙香等を雨りて、諸仏の功徳を供養し讃ずるに、分別の心あることなきがゆえに」と言えり」(論)と。「無余」とは、遍く一切世界一切諸仏の大会に至りて、一世界一仏会として至らざることあることなきを明かすなり。肇公の言わく、「法身は像なくして形を殊にす。ならびに至韻に応ず。言なくして玄籍いよいよ布き、冥権謀なくして動じて事と会す」(注維摩詰経序)と。けだしこの意なり。「四には、かれ十方一切の世界に、三宝ましまさぬ処において、仏法僧宝功徳大海を住持し荘厳して、遍く示して、如実の修行を解らしむ。「偈」に「何等の世界にか、仏法功徳宝ましまさざらん。我願わくは、みな往生して、仏法を示して仏のごとくせん」と言えるがゆえに」(論)と。上の三句に「遍く至る」と言うといえども、みなこれ有仏の国土なり。もしこの句なくは、すなわちこれ法身、所として法ならざることあらん。上善、所として善ならざることあらん。観行の体相竟りぬ。

26已下はこれ解義の中の第四重なり。名づけて「浄入願心」とす。「浄入願心」とは「また、さきに観察荘厳仏土功徳成就、荘厳仏功徳成就、荘厳菩薩功徳成就を説きつ。この三種の成就は願心の荘厳したまえるなりと、知るべし」(論)といえり。「知るべし」とは、この三種の荘厳成就は、もと四十八願等の清浄の願心の荘厳せるところなるによって、因浄なるがゆえに果浄なり。因なくして他の因のあるにはあらずと知るべしとなり。「略して入一法句を説くがゆえに」(論)とのたまえり。上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを「広」とす。入一法句は、「略」とす。何がゆえぞ広略相入を示現するとならば、諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす。この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず。このゆえに広略相入して、絯ぬるに法の名をもってす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなわち自利利他にあたわず。「一法句とは、いわく清浄句なり。清浄句は、いわく真実の智慧無為法身なるがゆえに」(論)とのたまえり。この三句は展転して相入る。何の義に依ってか、これを名づけて法とする、清浄をもってのゆえに。何の義に依ってか、名づけて清浄とする、真実の智慧無為法身をもってのゆえなり。真実の智慧は実相の智慧なり。実相は無相なるがゆえに、真智は無知なり。無為法身は法性身なり。法性寂滅なるがゆえに、法身は無相なり。無相のゆえによく相ならざることなし。このゆえに相好荘厳すなわち法身なり。無知のゆえによく知らざることなし。このゆえに一切種智すなわち真実の智慧なり。真実をもってして智慧に目くることは、智慧は作にあらず非作にあらざることを明かすなり。無為をもってして法身を樹つることは、法身は色にあらず非色にあらざることを明かすなり。非にあらざれば、あに非のよく是なるにあらざらんや。けだし非なき、これを是と曰うなり。自ずから是にして、また是にあらざることを待つことなきなり。是にあらず非にあらず、百非の喩えざるところなり。このゆえに清浄句と言えり。清浄句とは、いわく真実の智慧無為法身なり。「この清浄に二種あり、知るべし」(論)といえり。上の転入句の中に、一法の通じて清浄に入る。清浄に通じて法身に入る。今将に清浄を別ちて二種を出だすがゆえなり。かるがゆえに「知るべし」と言えり。「何等か二種。一つには器世間清浄、二つには衆生世間清浄なり。器世間清浄とは、さきに説くがごときの十七種の荘厳仏土功徳成就、これを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄とは、さきに説くがごときの八種の荘厳仏功徳成就と、四種の荘厳菩薩功徳成就と、これを衆生世間清浄と名づく。かくのごときの一法句に二種の清浄の義を摂すと、知るべし」とのたまえり。それ衆生は別報の体とす。国土は共報の用とす。体用一ならず。このゆえに、知るべし。しかるに諸法は心をして無余の境界を成ず。衆生および器、また異にして一ならざることを得ず。すなわち義をして分かつに異ならず。同じく清浄なり。器は用なり。謂わくかの浄土は、これかの清浄の衆生の受用するところなるがゆえに、名づけて器とす。浄食に不浄の器を用うれば、器不浄なるをもってのゆえに、食また不浄なり。不浄の食に浄器を用うれば、食不浄なるがゆえに、器また不浄なるがごとし。かならず二ともに潔くして、いまし浄と称することを得しむ。ここをもって一の清浄の名、必ず二種を摂す。問うて曰わく、衆生清浄と言えるは、すなわちこれ仏と菩薩となり。かのもろもろの人天、この清浄の数に入ることを得んや、いなや。答えて曰わく、清浄と名づくることを得るは、実の清浄にあらず。譬えば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもってのゆえに、名づけて比丘とす、凡夫の出家の者をまた比丘と名づくるがごとし。また潅頂王子初生の時、三十二相を具して、すなわち七宝のために属せらる。未だ転輪王の事を為すことあたわずといえども、また転輪王と名づくるがごとし。それ必ず転輪王たるべきをもってのゆえに。かのもろもろの人天も、またかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じて当に清浄法身を得べし。当に得べきをもってのゆえに、清浄と名づくることを得るなりと。

27「善巧摂化」とは、「かくのごとき菩薩は、奢摩他・毘婆舎那、広略修行成就して、柔軟心なり」(論)とのたまえり。柔軟心とは、謂わく広略の止観、相順し修行して、不二の心を成ぜるなり。譬えば水をもって影を取るに、清と静と相資けて成就するがごとしとなり。「実のごとく広略の諸法を知る」(論)とのたまえり。如実知とは、実相のごとくして知るなり。広の中の二十九句、略の中の一句、実相にあらざることなきなり。「かくのごとき巧方便回向を成就したまえり」(論)とのたまえり。「かくのごとき」というは、前後の広略、みな実相なるがごときなり。実相を知るをもってのゆえに、すなわち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄を知れば、すなわち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知るは、すなわち真実の帰依を起こすなり。慈悲と帰依と巧方便とは、下にあり。「何者か菩薩の巧方便回向。菩薩の巧方便回向とは、謂わく礼拝等の五種の修行を説く。所集の一切の功徳善根は、自身住持の楽を求めず。一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆえに、作願して一切衆生を摂取して、共に同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。これを菩薩の巧方便回向成就と名づく」(論)とのたまえり。王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生の中に、行に優劣ありといえども、みな無上菩提の心を発せざるはなけん。この無上菩提心は、すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなわちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆえにかの安楽浄土に生まれんと願ずる者は、かならず無上菩提心を発するなり。もし人、無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽無間なるを聞きて、楽のためのゆえに生まれんと願ずるは、また当に往生を得ざるべきなり。このゆえに「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆえに」と言えり。住持楽とは、謂わくかの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なきなり。おおよそ回向の名義を釈せば、謂わく己が所集の一切の功徳をもって、一切衆生に施与して、共に仏道に向かえしめたまうなりと。巧方便は、謂わく菩薩願ずらく、「己が智慧の火をもって、一切衆生の煩悩の草木を焼かんと。もし一衆生として成仏せざることあらば、我仏に作らじ」と。しかるに衆生未だことごとく成仏せざるに、菩薩すでに自ら成仏せんは、譬えば火擿聴念の反して、一切の草木を擿聴歴の反んで、焼きて尽くさしめんと欲するに、草木未だ尽きざるに、火擿すでに尽きんがごとし。その身を後にして、身を先にするをもってのゆえに、方便と名づく。この中に方便と言うは、謂わく作願して一切衆生を摂取して、共に同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国は、すなわちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。

28「障菩提門」とは、「菩薩、かくのごとき、善く回向成就したまえるを知れば、すなわちよく三種の菩提門相違の法を遠離するなり。何等か三種。一つには智慧門に依りて自楽を求めず、我心、自身に貪着するに遠離せるがゆえに」(論)とのたまえり。進むを知りて退くを守るを智と曰う。空無我を知るを慧と曰う。智に依るがゆえに自楽を求めず、慧に依るがゆえに我心、自身を貪着するを遠離せり。「二つには慈悲門に依れり。一切衆生の苦を抜いて、無安衆生心を遠離せるがゆえに」(論)とのたまえり。苦を抜くを慈と曰う。楽を与うるを悲と曰う。慈に依るがゆえに一切衆生の苦を抜く。悲に依るがゆえに無安衆生心を遠離せり。「三つには方便門に依れり。一切衆生を憐愍したもう心なり。自身を供養し恭敬する心を遠離せるがゆえに」(論)とのたまえり。正直を方と曰う。外己を便と曰う。正直に依るがゆえに、一切衆生を憐愍する心を生ず。外己に依るがゆえに自身を供養し恭敬する心を遠離せり。これを三種の菩提門相違の法を遠離すと名づく。

29「順菩提門」とは、「菩薩は、かくのごとき三種の菩提門相違の法を遠離して、三種の随順菩提門の法満足することを得たまえるがゆえに。何等か三種。一つには無染清浄心。自身のために諸楽を求めざるをもってのゆえに」(論)とのたまえり。菩提はこれ無染清浄の処なり。もし身のために楽を求めば、すなわち菩提に違しなん。このゆえに無染清浄心は、これ菩提門に順ずるなり。「二つには安清浄心。一切衆生の苦を抜くをもってのゆえに」(論)とのたまえり。菩提はこれ一切衆生を安穏する清浄の処なり。もし作心して一切衆生を抜きて生死の苦を離れしめずは、すなわち菩提に違しなん。このゆえに一切衆生の苦を抜くは、これ菩提門に順ずるなりと。「三つには楽清浄心。一切衆生をして大菩提を得しむるをもってのゆえに、衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもってのゆえに」(論)とのたまえり。菩提はこれ畢竟常楽の処なり。もし一切衆生をして畢竟常楽を得しめずは、すなわち菩提に違しなん。この畢竟常楽は何に依りてか得る、大義門に依るなり。大義門は、謂わくかの安楽仏国土これなり。このゆえにまた「衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもってのゆえに」と言えり。これを「三種の随順菩提門の法満足せり」と名づくと、知るべしと。

30「名義摂対」とは、「さきに、智慧・慈悲・方便、三種の門、般若を摂取す。般若、方便を摂取すと説きつ。知るべし」(論)とのたまえり。般若は如に達するの慧の名なり。方便は権に通ずるの智の称なり。如に達すれば、すなわち心行寂滅なり。権に通ずれば、すなわち備に衆機に省くの智なり。備に応じて無知なり。寂滅の慧、また無知にして備に省く。しかればすなわち智慧と方便と相縁じて動じ、相縁じて静なり。動、静を失せざることは智慧の功なり。静、動を廃せざることは方便の力なり。このゆえに智慧と慈悲と方便と、般若を摂取す。般若、方便を摂取す。「知るべし」とは、謂わく智慧と方便は、これ菩薩の父母なり。もし智慧と方便とに依らずは、菩薩の法則、成就せざることを知るべし。何をもってのゆえに。もし智慧なくして衆生のためにする時んば、すなわち顛倒に堕せん。もし方便なくして法性を観ずる時んば、すなわち実際を証せん。このゆえに知るべし、と。「さきに遠離我心貪着自身・遠離無安衆生心・遠離供養恭敬自身心を説きつ。この三種の法は障菩提心を遠離するなりと、知るべし」(論)とのたまえり。諸法におのおの障碍の相あり。風はよく静を障う。土はよく水を障う。湿はよく火を障う。五黒・十悪は人天を障う。四顛倒は声聞の果を障うるがごとし。この中の三種は、菩提を障うる心を遠離せずと。「知るべし」とは、もし無障を得んと欲わば、当にこの三種の障碍を遠離すべしとなり。「さきに無染清浄心・安清浄心・楽清浄心を説きつ。この三種の心は略して一処にして妙楽勝真心を成就したまえりと、知るべし」(論)とのたまえり。楽に三種あり。一つには外楽、謂わく五識所生の楽なり。二つには内楽、謂わく初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三つには法楽五角の反楽魯各の反、謂わく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起これり。これは遠離我心と、遠離無安衆生心と、遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもってのゆえに。勝の言は三界の中の楽に勝出せり。真の言は虚偽ならず、顛倒せざるなり。

31「願事成就」は、「かくのごとき菩薩は智慧心・方便心・無障心・勝真心をもって、よく清浄仏国土に生ぜしめたまえりと、知るべし」(論)とのたまえり。「知るべし」とは、謂わくこの四種の清浄の功徳、よくかの清浄仏国土に生ずることを得しむ。これ他縁をして生ずるにはあらずと知るべしとなり。「これを菩薩摩訶薩、五種の法門に随順して、所作意に随いて自在に成就したまえりと名づく。さきの所説のごとき身業・口業・意業・智業・方便智業、法門に随順せるがゆえに」(論)とのたまえり。随意自在とは、言うこころは、この五種の功徳力、よく清浄仏土に生ぜしめて、出没自在なるなり。身業とは礼拝なり。口業とは讃嘆なり。意業とは作願なり。智業とは観察なり。方便智業とは回向なり。この五種の業和合せり、すなわちこれ往生浄土の法門に随順して、自在の業成就したまえり、と言えりと。

32「利行満足」とは、「また五種の門ありて、漸次に五種の功徳を成就したまえりと、知るべしと。何ものか五門。一には近門、二には大会衆門、三には宅門、四には屋門、五には園林遊戯地門なり」とのたまえり。この五種は、入出の次第の相を示現せしむ。入相の中に、初めに浄土に至るはこれ近相なり。謂わく大乗正定聚に入るは、阿耨多羅三藐三菩提に近づくなり。浄土に入り已るは、すなわち如来の大会衆の数に入るなり。衆の数に入り已りぬれば、当に修行安心の宅に至るべし。宅に入り已れば、当に修行所居の屋宇尤挙の反に至るべし。修行成就し已りぬれば、当に教化地に至るべし。教化地はすなわちこれ菩薩の自娯楽の地なり。このゆえに出門を園林遊戯地門と称すと。「この五種の門は、初めの四種の門は入の功徳を成就したまえり。第五門は出の功徳を成就したまえり」(論)とのたまえり。この入出の功徳は、何ものかこれや。釈すらく、「入第一門というは、阿弥陀仏を礼拝して、かの国に生ぜしめんがためにするをもってのゆえに、安楽世界に生まるることを得しむ。これを入第一門と名づく」(論)。仏を礼して仏国に生まれんと願ずるは、これ初めの功徳の相なりと。「入第二門とは、阿弥陀仏を讃嘆し、名義に随順して、如来の名を称せしめ、如来の光明智相に依って修行せるをもってのゆえに、大会衆の数に入ることを得しむ。これを入第二門と名づく」(論)とのたまえり。如来の名義に依って讃嘆する、これ第二の功徳相なりと。「入第三門とは、一心に専念し作願して、彼に生じて奢摩他寂静三昧の行を修するをもってのゆえに、蓮華蔵世界に入ることを得しむ。これを入第三門と名づく」(論)。寂静止を修せんためのゆえに、一心にかの国に生まれんと願ずる、これ第三の功徳相なりと。「入第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修せしむるをもってのゆえに、かの所に到ることを得て、種種の法味の楽を受用せしむ。これを入第四門と名づく」(論)とのたまえり。種種の法味の楽とは、毘婆舎那の中に、観仏国土清浄味・摂受衆生大乗味・畢竟住持不虚作味・類事起行願取仏土味あり。かくのごときらの無量の荘厳仏道の味あるがゆえに、種種と言えり。これ第四の功徳相なりと。「出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく」(論)とのたまえり。示応化身とは、『法華経』の普門示現の類のごときなり。遊戯に二の義あり。一には自在の義。菩薩、衆生を度す。譬えば師子の鹿を摶つに所為難らざるがごときは、遊戯するがごとし。二には度無所度の義なり。菩薩、衆生を観ずるに畢竟じて所有なし。無量の衆生を度すといえども、実に一衆生として滅度を得る者なし。衆生を度すと示すこと、遊戯するがごとし。本願力と言うは、大菩薩、法身の中において、常に三昧にましまして、種種の身、種種の神通、種種の説法を現ずることを示すこと、みな本願力より起これるをもってなり。譬えば阿修羅の琴の鼓する者なしといえども、音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳相と名づくとのたまえり。已上抄出

33しかれば大聖の真言、誠に知りぬ。大涅槃を証することは、願力の回向に藉りてなり。還相の利益は、利他の正意を顕すなり。ここをもって論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萠を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまえり。仰ぎて奉持すべし、特に頂戴すべしと。

 

顕浄土真実証文類四

 

顕浄土真仏土文類五

     光明無量の願

     寿命無量の願

 

顕浄土真仏土文類五

愚禿釈親鸞集

1謹んで真仏土を案ずれば、仏はすなわちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。2しかればすなわち大悲の誓願に酬報するがゆえに、真の報仏土と曰うなり。3すでにして願います、すなわち光明・寿命の願これなり。

4『大経』に言わく、設い我仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ、と。

5また願に言わく、設い我仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下百千億那由他の劫に至らば、正覚を取らじ、と。

6願成就の文に言わく、仏阿難に告げたまわく、「無量寿仏の威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明の及ぶことあたわざるところなり。乃至 このゆえに無量寿仏は、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。それ衆生ありて、この光に遇う者は、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍し、善心生ず。もし三塗懃苦の処にありて、この光明を見ば、みな休息を得て、また苦悩なけん。寿終えての後、みな解脱を蒙る。無量寿仏の光明顕赫にして、十方諸仏の国土を照耀して、聞こえざることなし。ただ我いまその光明を称するにあらず、一切諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとく共に嘆誉すること、またかくのごとし。もし衆生ありて、その光明威神功徳を聞きて、日夜に称説し、心を至して断えざれば、意の所願に随いて、その国に生まるることを得て、もろもろの菩薩・声聞大衆のために、共にその功徳を嘆誉し称せられん。それしこうして後、仏道を得る時に至りて、普く十方の諸仏菩薩のために、その光明を嘆ぜられんこと、また今のごときならん」となり。仏の言わく、「我無量寿仏の光明威神、巍巍殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、尚未だ尽くすことあたわじ」と。

7仏阿難に語りたまわく、「無量寿仏は、寿命長久にして勝計すべからず。汝むしろ知らんや。たとい十方世界の無量の衆生、みな人身を得て、ことごとく声聞・縁覚を成就せしめて、すべて共に集会して、思いを禅らにし、心を一つにして、その智力を竭して、百千万劫において、ことごとく共に推算して、その寿命の長遠の数を計えんに、窮尽してその限極を知ることあたわじ」と。抄出

8『無量寿如来会』に言わく、阿難、この義をもってのゆえに、無量寿仏また異名まします。謂わく、無量光・無辺光・無着光・無碍光・光照王・端厳光・愛光・喜光・可観光・不可思議光・無等光・不可称量光・暎蔽日光・暎蔽月光・掩奪日月光なり。かの光明、清浄広大にして、普く衆生をして身心悦楽せしむ。また一切余の仏刹の中の天・龍・夜叉・阿修羅等、みな歓悦を得しむ、と。已上

9『無量清浄平等覚経』に言わく、速疾に超えて、すなわち安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養す、と。已上

10『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』支謙訳 に言わく、仏の言わく、「阿弥陀仏の光明は最尊第一にして比びなし。諸仏の光明みな及ばざるところなり。八方上下無央数の諸仏の中に、仏の頂中の光明七丈を照らすあり。仏の頂中の光明一里を照らすあり、乃至 仏の頂中の光明二百万仏国を照らすあり。」仏の言わく、「もろもろの八方上下無央数の仏の頂中の光明の炎照するところ、みなかくのごとくなり。阿弥陀仏の頂中の炎照するところ、千万仏国なり。諸仏の光明の照らすところに近遠ある所以は何んとなれば、本それ前世の宿命に、道を求めて菩薩たりしに、所願を照らすに、功徳おのおの自ずから大小あり。それしこうして後、仏に作る時に至りて、おのおの自らこれを得たり。このゆえに光明転た同等ならざらしむ。諸仏の威神同等なるならくのみと。自在の意の所欲、作為して予め計らず。阿弥陀仏の光明の照らすところ、最大なり。諸仏の光明みな及ぶことあたわざるところなり。」仏、阿弥陀仏の光明の極善なることを称誉したもう、「阿弥陀仏の光明は、極善にして善の中の明好なり。それ快きこと比びなし。絶殊無極なり。阿弥陀仏の光明は、清潔にして瑕穢なし、欠減なきなり。阿弥陀仏の光明は、殊好なること日月の明よりも勝れたること、百千億万倍なり。諸仏の光明の中の極明なり。光明の中の極好なり。光明の中の極雄傑なり。光明の中の快善なり。諸仏の中の王なり。光明の中の極尊なり。光明の中の最明無極なり。もろもろの無数天下の幽冥の処を炎照するに、みな常に大明なり。諸有の人民、蜎飛蠕動の類、阿弥陀仏の光明を見ざることなきなり。見たてまつる者、慈心歓喜せざる者なけん。世間諸有の婬泆・瞋怒・愚痴の者、阿弥陀仏の光明を見たてまつりて、善を作さざるはなきなり。もろもろの泥梨・禽狩・辟茘・考掠・勤苦の処にありて、阿弥陀仏の光明を見たてまつれば、至りてみな休止して、また治することを得ざれども、死して後、憂苦を解脱することを得ざる者はなきなり。阿弥陀仏の光明と名とは、八方上下無窮無極無央数の諸仏の国に聞かしめたまう。諸天人民、聞知せざるはなし。聞知せん者、度脱せざるはなきなり。」仏の言わく、「独り我阿弥陀仏の光明を称誉するのみにあらざるなり。八方上下無央数の仏・辟支仏・菩薩・阿羅漢、称誉するところみなかくのごとし。」仏の言わく、「それ人民、善男子・善女人ありて、阿弥陀仏の声を聞きて、光明を称誉して、朝暮に常にその光好を称誉して、心を至して断絶せざれば、心の所願にありて、阿弥陀仏国に往生す」と。已上

11『不空羂索神変真言経』に言わく、汝当生の処は、これ阿弥陀仏の清浄報土なり。蓮華より化生して、常に諸仏を見たてまつる。もろもろの法忍を証せん。寿命無量百千劫数ならん。直ちに阿耨多羅三藐三菩提に至る。また退転せず。我常に祐護す、と。已上

12『涅槃経』(四相品)に言わく、また解脱は、名づけて虚無と曰う。虚無すなわちこれ解脱なり。解脱すなわちこれ如来なり。如来すなわちこれ虚無なり。非作の所作なり。乃至 真解脱は不生不滅なり。このゆえに解脱すなわちこれ如来なり。如来また爾なり。不生不滅・不老不死・不破不壊にして、有為の法にあらず。この義をもってのゆえに、名づけて如来入大涅槃と曰う。乃至 また解脱は無上上と名づく。乃至 無上上はすなわち真解脱なり。真解脱は、すなわちこれ如来なり。乃至 もし阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得已りて、無愛無疑なり。無愛無疑はすなわち真解脱なり。真解脱はすなわちこれ如来なり。乃至 如来はすなわちこれ涅槃なり。涅槃はすなわちこれ無尽なり。無尽はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ決定なり。決定はすなわちこれ阿耨多羅三藐三菩提なりと。迦葉菩薩、仏に白して言さく、「世尊、もし涅槃と仏性と決定と如来と、これ一義名ならば、いかんぞ説きて三帰依ありと言えるや」と。仏、迦葉に告げたまわく、「善男子、一切衆生、生死を怖畏するがゆえに、三帰を求む。三帰をもってのゆえに、すなわち仏性と決定と涅槃とを知るなりと。善男子、法の名一・義異なるあり。法の名義倶異なるあり。名一・義異とは、仏と常法と常比丘僧とは常なり。涅槃・虚空、みなまたこれ常なり。これを名一・義異と名づく。名義倶異とは、仏を名づけて覚とす、法を不覚と名づく、僧を和合と名づく、涅槃を解脱と名づく、虚空を非善と名づく、また無碍と名づく。これを名義倶異とす。善男子、三帰依とはまたかくのごとし」と。略出

13(四依品)また言わく、光明は不羸劣に名づく。不羸劣とは、名づけて如来と曰う。また光明は名づけて智慧とす、と。已上

14(聖行品)また言わく、善男子、一切有為はみなこれ無常なり。虚空は無為なり、このゆえに常とす。仏性は無為なり、このゆえに常とす。虚空はすなわちこれ仏性なり、仏性はすなわちこれ如来なり、如来はすなわちこれ無為なり、無為はすなわちこれ常なり、常はすなわちこれ法なり、法はすなわちこれ僧なり、僧すなわち無為なり、無為はすなわちこれ常なり。乃至 善男子、譬えば牛より乳を出だす、乳より酪を出だす、酪より生蘇を出だす、生蘇より熟蘇を出だす、熟蘇より醍醐を出だす、醍醐最上なり。もし服することある者は、衆病みな除こる。所有のもろもろの薬、ことごとくその中に入るがごとし。善男子、仏もまたかくのごとし。仏より十二部経を出だす、十二部経より修多羅を出だす、修多羅より方等経を出だす、方等経より般若波羅蜜を出だす、般若波羅蜜より大涅槃を出だす。なお醍醐のごとし。醍醐というは、仏性に喩う。仏性は、すなわちこれ如来なり。善男子、かくのごときの義のゆえに、説きて「如来所有の功徳、無量無辺不可称計」と言えり、と。抄出

15(梵行品)また言わく、善男子、道に二種あり。一つには常、二つには無常なり。菩提の相に、また二種あり。一つには常、二つには無常なり。涅槃もまたしかなり。外道の道を名づけて無常とす、内道の道はこれを名づけて常とす。声聞・縁覚所有の菩提を名づけて無常とす、菩薩・諸仏の所有の菩提、これを名づけて常とす。外の解脱は名づけて無常とす、内の解脱はこれを名づけて常とすと。善男子、道と菩提とおよび涅槃と、ことごとく名づけて常とす。一切衆生は、常に無量の煩悩のために覆われて慧眼なきがゆえに、見ることを得ることあたわずして、もろもろの衆生、戒定慧を修するを見んと欲うがために、修行をもってのゆえに、道と菩提とおよび涅槃とを見る。これを菩薩の得道菩提涅槃と名づく。道の性相、実に不生滅なり。この義をもってのゆえに、捉持すべからず。乃至 道は色像なしといえども、見つべし、称量して知りぬべし、しかるに実に用ありと。乃至 衆生の心のごときは、これ色にあらず、長にあらず短にあらず、麁にあらず細にあらず、縛にあらず解にあらず、見にあらずといえども、法としてまたこれ有なり、と。抄出

16(徳王品)また言わく、善男子、大楽あるがゆえに大涅槃と名づく。涅槃は無楽なり。四楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。何等をか四とする。一つには諸楽を断ずるがゆえに。楽を断ぜざるは、すなわち名づけて苦とす。もし苦あらば大楽と名づけず。楽を断ずるをもってのゆえに、すなわち苦あることなけん。無苦・無楽をすなわち大楽と名づく。涅槃の性は無苦・無楽なり。このゆえに名づけて大楽とす。この義をもってのゆえに大涅槃と名づく。また次に善男子、楽に二種あり、一つには凡夫、二つには諸仏なり。凡夫の楽は無常敗壊なり、このゆえに無楽なり。諸仏は常楽なり、変易あることなきがゆえに大楽と名づく。また次に善男子、三種の受あり。一つには苦受、二つには楽受、三つには不苦不楽受なり。不苦不楽これまた苦とす。涅槃も不苦不楽に同じといえども、しかるに大楽と名づく。大楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。二つには大寂静のゆえに名づけて大楽とす。涅槃の性これ大寂静なり。何をもってのゆえに、一切憒閙の法を遠離せるゆえに。大寂をもってのゆえに大涅槃と名づく。三つには一切智のゆえに名づけて大楽とす。一切智にあらざるをば大楽と名づけず。諸仏如来は一切智のゆえに名づけて大楽とす。大楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。四つには身不壊のゆえに名づけて大楽とす。身もし壊すべきは、すなわち楽と名づけず。如来の身は金剛にして壊なし。煩悩の身、無常の身にあらず、ゆえに大楽と名づく。大楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。已上

17また言わく、不可称量・不可思議なるがゆえに、名づけて大般涅槃とすることを得。純浄をもってのゆえに大涅槃と名づく。いかんが純浄なる。浄に四種あり。何等をか四とする。一つには二十五有を名づけて不浄とす。よく永く断ずるがゆえに、名づけて浄とすることを得。浄すなわち涅槃なり。かくのごときの涅槃、また有にしてこれ涅槃と名づくることを得。実にこれ有にあらず。諸仏如来、世俗に随うがゆえに涅槃は有なりと説きたまえり。譬えば世人の、父にあらざるを父と言い、母にあらざるを母と言う、実に父母にあらずして父母と言うがごとし。涅槃もまたしかなり。世俗に随うがゆえに、説きて諸仏有にして大涅槃なりと言えり。二つには業清浄のゆえに。一切凡夫の業は、不清浄のゆえに涅槃なし。諸仏如来は業清浄のゆえに、かるがゆえに大浄と名づく。大浄をもってのゆえに大涅槃と名づく。三つには身清浄のゆえに。身もし無常なるを、すなわち不浄と名づく。如来の身は常なるがゆえに大浄と名づく。大浄をもってのゆえに大涅槃と名づく。四つには心清浄のゆえに。心もし有漏なるを名づけて不浄と曰う。仏心は無漏なるがゆえに大浄と名づく。大浄をもってのゆえに大涅槃と名づく。善男子、これを善男子・善女人と名づく、と。抄出

18また言わく、善男子、諸仏如来は煩悩起こらず、これを涅槃と名づく。所有の智慧、法において無碍なり、これを如来とす。如来はこれ凡夫・声聞・縁覚・菩薩にあらず、これを仏性と名づく。如来は身心智慧、無量無辺阿僧祇の土に遍満したまうに、障碍するところなし、これを虚空と名づく。如来は常住にして変易あることなければ、名づけて実相と曰う。この義をもってのゆえに、如来は実に畢竟涅槃にあらざる、これを菩薩と名づく、と。已上

19(迦葉品)また言わく、迦葉菩薩言わく、「世尊、仏性は常なり、なお虚空のごとし。なにがゆえぞ、如来説きて未来と言うやと。如来、もし一闡提の輩善法なしと言わば、一闡提の輩、それ同学・同師・父母・親族・妻子において、あに当に愛念の心を生ぜざるべきや。もしそれ生ぜば、これ善にあらずや」と。仏の言わく、「善いかな、善いかな、善男子、快くこの問いを発せり。仏性はなお虚空のごとし。過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず。一切衆生に三種の身あり、いわゆる過去・未来・現在なり。衆生、未来に清浄の身を具足荘厳して、仏性を見ることを得ん。このゆえに我、仏性未来と言えりと。善男子、あるいは衆生のために、ある時は因を説きて果とす。ある時は果を説きて因とす。このゆえに『経』の中に命を説きて食とす。色を見て触と名づく。未来の身浄なるがゆえに仏性と説く。」「世尊、仏の所説の義のごとし。かくのごときの者、なにがゆえぞ説きて、「一切衆生悉有仏性」と言えるや」と。「善男子、衆生の仏性は現在に無なりといえども、無と言うべからず。虚空のごとし。性は無なりといえども、現在に無と言うことを得ず。一切衆生また無常なりといえども、しかもこれ仏性は常住にして変なし。このゆえに我この『経』の中において、「衆生の仏性は非内非外にして、なお虚空のごとし」と説きたまう。非内非外にして、それ虚空のごとくして有なり。内外は虚空なれども、名づけて一とし常とせず。また一切処有と言うことを得ず。虚空はまた非内非外なりといえども、しかれどももろもろの衆生ことごとくみなこれあり。衆生の仏性もまたかくのごとし。汝言うところの一闡提の輩のごとし、もし身業・口業・意業・取業・求業・施業・解業かくのごときらの業あれども、ことごとくこれ邪業なり。何をもってのゆえに、因果を求めざるがゆえなりと。善男子、訶梨勒の果、根・茎・枝・葉・華・実、ことごとく苦きがごとし。一闡提の業もまたかくのごとし。」已上

20また言わく、善男子、如来は知諸根力を具足したまえり。このゆえに善く衆生の上・中・下の根を解り分別して、能くこの人を知ろしめして下を転じて中と作す、能くこの人を知ろしめして中を転じて上と作す、能くこの人を知ろしめして上を転じて中と作す、能くこの人を知ろしめして中を転じて下と作す。このゆえに当に知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもってのゆえに、あるいは善根を断ず、断じ已りて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、終に先に断じて、断じ已りてまた生ぜざらん。また「一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なり」と説くべからずと。善男子、このゆえに如来、「一切の法は定相あることなし」と説きたまえり。迦葉菩薩、仏に白して言さく、「世尊、如来は知諸根力を具足して、定んで、善星当に善根を断ずべしと知ろしめさん。何の因縁をもって、その出家を聴したまう」と。仏の言わく、「善男子、我往昔の初において出家の時、吾が弟難陀・従弟阿難・提婆達多、子羅睺羅、かくのごときらの輩、みなことごとく我に随いて家を出でて道を修しき。我もし善星が出家を聴さずは、その人次に当に王位を紹ぐことを得べし。その力自在にして、当に仏法を壊すべし。この因縁をもって、我すなわち、その家を出でて道を修することを聴す。善男子、善星比丘もし出家せずは、また善根を断ぜん、無量世においてすべて利益なけん。いま出家し已りて善根を断ずといえども、よく戒を受持して、耆旧・長宿・有徳の人を供養し恭敬せん。初禅乃至四禅を修習せん。これを善因と名づく。かくのごときの善因、よく善法を生ぜん。善法既に生ぜば、よく道を修習せん。既に道を修習せば、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。このゆえに我、善星が出家を聴す。善男子、もし我、善星比丘が出家を聴し戒を受けしめずは、すなわち我を称して如来具足十力とすることを得ざらんと。乃至 善男子、如来善く、衆生かくのごとき上中下の根と知ろしめす。このゆえに、仏は具知根力と称せん。」迦葉菩薩、仏に白して言さく、「世尊、如来はこの知根力を具足したまえり。このゆえによく一切衆生の上中下の根・利鈍の差別を知ろしめして、人に随い、意に随い、時に随うがゆえに、如来知諸根力と名づけたてまつる。乃至 あるいは説きて、犯四重禁、作五逆罪、一闡提等みな仏性ありと言うことあり」と。乃至

21如来世尊、国土のためのゆえに、時節のためのゆえに、他語のためのゆえに、人のためのゆえに、衆根のためのゆえに、一法において二種の説を作す、一名の法において無量名を説く、一義の中において無量の名を説く、無量の義において無量の名を説く。いかんが一名に無量の名を説くや。なお涅槃のごとし。また「涅槃」と名づく、また「無生」と名づく、また「無出」と名づく、また「無作」と名づく、また「無為」と名づく、また「帰依」と名づく、また「窟宅」と名づく、また「解脱」と名づく、また「光明」と名づく、また「燈明」と名づく、また「彼岸」と名づく、また「無畏」と名づく、また「無退」と名づく、また「安処」と名づく、また「寂静」と名づく、また「無相」と名づく、また「無二」と名づく、また「一行」と名づく、また「清涼」と名づく、また「無闇」と名づく、また「無碍」と名づく、また「無諍」と名づく、また「無濁」と名づく、また「広大」と名づく、また「甘露」と名づく、また「吉祥」と名づく。これを「一名に無量名を作る」と名づく。いかんが一義に無量の名を説くや。なお帝釈のごとし。乃至 いかんが無量の義において無量の名を説くやと。仏如来の名のごとし。如来の義異名異とす。また「阿羅呵」と名づく、義異名異なり。また「三藐三仏陀」と名づく、義異名異なり。また「船師」と名づく、また「導師」と名づく、また「正覚」と名づく、また「明行足」と名づく、また「大師子王」と名づく、また「沙門」と名づく、また「婆羅門」と名づく、また「寂静」と名づく、また「施主」と名づく、また「到彼岸」と名づく、また「大医王」と名づく、また「大象王」と名づく、また「大龍王」と名づく、また「施眼」と名づく、また「大力士」と名づく、また「大無畏」と名づく、また「宝聚」と名づく、また「商主」と名づく、また「得解脱」と名づく、また「大丈夫」と名づく、また「天人師」と名づく、また「大分陀利」と名づく、また「独無等侶」と名づく、また「大福田」と名づく、また「大智海」と名づく、また「無相」と名づく、また「具足八智」と名づく。かくのごとき一切、義異名異なりと。善男子、これを無量義の中に無量の名を説くと名づく。また一義に無量の名を説くことあり。いわゆる陰のごとし。また名づけて「陰」とす、また「顛倒」と名づく、また名づけて「諦」とす、また名づけて「四念処」とす、また「四食」と名づく、また「四識住処」と名づく、また名づけて「有」とす、また名づけて「道」とす、また名づけて「時」とす、また名づけて「衆生」とす、また名づけて「世」とす、また「第一義」と名づく、また「三修」と名づく、謂わく身・戒・心なり、また「因果」と名づく、また「煩悩」と名づく、また「解脱」と名づく、また「十二因縁」と名づく、また「声聞・辟支仏」と名づく、仏をまた「地獄・餓鬼・畜生・人・天」と名づく、また「過去・現在・未来」と名づく、これを「一義に無量の名を説く」と名づく。善男子、如来世尊、衆生のためのゆえに、広の中に略を説く、略の中に広を説く。第一義諦を説きて世諦とす。世諦の法を説きて第一義諦とす」と。略出

22(梵行品)また言わく、迦葉また言さく、「世尊、第一義諦をまた名づけて道とす、また菩提と名づく、また涅槃と名づく」と。乃至

23(迦葉品)また言わく、善男子、我『経』の中に如来の身を説くに、おおよそ二種あり。一つには生身、二つには法身なり。生身と言うは、すなわちこれ方便応化の身なり。かくのごときの身は、これ生老病死、長短黒白、是此是彼、是学無学と言うことを得べし。我がもろもろの弟子、この説を聞き已りて、我が意を解らざれば、唱えて言わく、「如来定んで仏身はこれ有為の法なりと説かん」と。法身はすなわちこれ常楽我浄なり。永く一切生老病死、非白非黒、非長非短、非此非彼、非学非無学を離れたまえれば、もし仏の出世、および不出世に常に動ぜずして変易あることなけん。善男子、我がもろもろの弟子この説を聞き已りて、我が意を解らざれば、唱えて言わく、「如来定んで仏身はこれ無為の法なりと説きたまえり」と。

24また言わく、我が所説の十二部経のごとし、あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは随自他意説なり。乃至 善男子、我が所説のごとき、十住の菩薩少しき仏性を見る、これを随他意説と名づく。何をもってのゆえに少見と名づくるや、と。十住の菩薩は首楞厳経等の三昧・三千の法門を得たり。このゆえに声聞自ら知りて当に阿耨多羅三藐三菩提を得べくとも、一切衆生定んで阿耨多羅三藐三菩提を得んことを見ず、このゆえに我「十住の菩薩、少分仏性を見る」と説くなり。善男子、常に一切衆生悉有仏性と宣説する、これを随自意説と名づく。一切衆生不断不滅にして、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得る、これを随自意説と名づく。一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩覆えるがゆえに見ることを得ることあたわずと。我が説、かくのごとし。汝が説、またしかなりと。これを随自他意説と名づく。善男子、如来ある時は一法のためのゆえに無量の法を説く、と。抄出

25(師子吼品)また言わく、一切覚者を名づけて仏性とす。十住の菩薩は名づけて一切覚とすることを得ざるがゆえに、このゆえに見るといえども明了ならず。善男子、見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。諸仏世尊は眼に仏性を見そなわす、掌の中において阿摩勒菓を観ずるがごとし。十住の菩薩、仏性を聞見すれども、ことさら了了ならず。十住の菩薩、ただ能く自ら定んで阿耨多羅三藐三菩提を得ることを知りて、一切衆生はことごとく仏性ありと知ることあたわず。善男子、また眼見あり。諸仏如来なり。十住の菩薩は仏性を眼見し、また聞見することあり。一切衆生乃至九地までに仏性を聞見す。菩薩もし一切衆生ことごとく仏性ありと聞けども、心に信を生ぜざれば聞見と名づけずと。乃至

師子吼菩薩摩訶薩言さく、「世尊、一切衆生は如来の心相を知ることを得ることあたわず、当にいかんが観じて知ることを得べしや」と。「善男子、一切衆生は実に如来の心相を知ることあたわず。もし観察して知ることを得んと欲わば、二つの因縁あり。一つには眼見、二つには聞見なり。もし如来所有の身業を見たてまつらんは、当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来所有の口業を観ぜん、当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを聞見と名づく。もし色貌を見たてまつること、一切衆生の与に等しき者なけん。当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし音声微妙最勝なるを聞かん、衆生所有の音声には同じからじ。当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを聞見と名づく。もし如来所作の神通を見たてまつらんに、衆生のためとやせん、利養のためとやせん。もし衆生のためにして利養のためにあらず、当に知るべし。これすなわち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来を観ずるに、他心智をもって衆生を観そなわす時、利養のために説き、衆生のために説かん。もし衆生のためにして利養のためにせざらん、当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを聞見と名づく。略出

26『浄土論』に曰わく、世尊、我一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生まれんと願ず。かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし、とのたまえり。已上

27『註論』に曰わく、「荘厳清浄功徳成就」とは、「偈」に「観彼世界相 勝過三界道故」と言えり。これいかんが不思議なるや。凡夫人、煩悩成就せるありて、またかの浄土に生まるることを得んに、三界の繫業畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いずくんぞ思議すべきや、と。

28また云わく、「正道の大慈悲は出世の善根より生ず」(論)とのたまえり。この二句は「荘厳性功徳成就」と名づく。乃至 性はこれ本の義なり。言うこころはこれ浄土は、法性に随順して、法本に乖かず、事、『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。また言うこころは、積習して性を成ず。法蔵菩薩を指す。もろもろの波羅蜜を集めて、積習して成ぜるところなり。また性と言うは、これ聖種性なり。序めに法蔵菩薩、世自在王仏の所にして無生忍を悟る。そのときの位を聖種性と名づく。この性の中にして四十八の大願を発して、この土を修起したまえり。すなわち安楽浄土と曰う。これ、かの因の所得なり。果の中に因を説く。かるがゆえに名づけて性とす。また性と言うは、これ必然の義なり、不改の義なり。海の性一味にして、衆流入るもの必ず一味になって、海の味、彼に随いて改まざるがごとしとなり。また人身の性不浄なるがゆえに、種種の妙好色香美味、身に入りぬれば、みな不浄となるがごとし。安楽浄土は、もろもろの往生の者、不浄の色なし、不浄の心なし、畢竟じてみな清浄平等無為法身を得しむ。安楽国土清浄の性成就したまえるをもってのゆえなり。「正道の大道大慈悲は、出世の善根より生ず」というは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道とする所以は、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるをもってのゆえに発心等し。発心等しきがゆえに道等し。道等しきがゆえに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆえに、「正道大慈悲」と言えり。慈悲に三縁あり。一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり。大悲はすなわちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆえなればなり。かるがゆえにこの大悲を謂いて浄土の根とす。ゆえに出世善根生と曰うなり、と。

29また云わく、問うて曰わく、「法蔵菩薩の本願力および龍樹菩薩の所讃を尋ぬるに、みなかの国に声聞衆多なるをもって奇とするに似たり、これ何の義あるや。」答えて曰わく、「声聞は実際をもって証とす。計るに更によく仏道の根芽を生ずべからず。しかるを仏、本願の不可思議の神力をもって、摂して彼に生ぜしむるに、必ず当にまた神力をもってそれをして無上道心を生ぜしむべし。譬えば鴆鳥水に入れば、魚蚌ことごとく死す。犀牛これに触るれば、死する者みな活えるがごとし。かくのごとき生ずべからずして生ぜしむ、所以に奇とすべし。しかるに五不思議の中に、仏法最も不可思議なり。仏よく声聞をしてまた無上道心を生ぜしめたまう。真に不可思議の至りなり。」

30また云わく、不可思議力とは、すべてかの仏国土の十七種荘厳功徳力、不可得思議なることを指すなり。諸経に説きて言わく、「五種の不可思議あり。一つには衆生多少不可思議、二つには業力不可思議、三つには龍力不可思議、四つには禅定力不可思議、五つには仏法力不可思議なり。この中に仏土不可思議に二種の力あり。一つには業力、謂わく法蔵菩薩の出世の善根と大願業力の所成なり。二つには正覚の阿弥陀法王の善く住持力をして摂したまうところなり。」

31また云わく、「自利利他を示現すというは、略してかの阿弥陀仏の国土の十七種の荘厳功徳成就を説きつ、如来の自身利益大功徳力成就と、利益他功徳成就とを示現したまえるがゆえに」(論)とのたまえり。略と言うは、かの浄土の功徳無量にして、ただ十七種のみにあらざることを彰すなり。それ須弥を芥子に入れ、毛孔に大海を納む。あに山海の神ならんや、毛芥の力ならんや、能神の者の神ならくのみ、と。

32また云わく、「何者か荘厳不虚作住持功徳成就。「偈」に「仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、よく速やかに功徳の大宝海を満足せしむる」がゆえにと言えり」(論)。「不虚作住持功徳成就」は、蓋しこれ阿弥陀如来の本願力なり。乃至 言うところの不虚作住持は、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とに依ってなり。願もって力を成ず、力もって願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あい府うて畢竟じて差わず。かるがゆえに成就と曰う、と。抄出

33『讃阿弥陀仏偈』に曰わく、曇鸞和尚造 南無阿弥陀仏、釈して『無量寿傍経』と名づく。賛め奉りてまた安養と曰う。

成仏より已来十劫を歴たまえり。寿命まさに量あることなけん。法身の光輪法界に遍じて、世の盲冥を照らす。かるがゆえに頂礼したてまつる。智慧の光明量るべからず。かるがゆえに仏をまた無量光と号す。有量の諸相、光暁を蒙る。このゆえに真実明を稽首したてまつる。解脱の光輪限斉なし。かるがゆえに仏をまた無辺光と号す。光触を蒙る者、有無を離る。このゆえに平等覚を稽首したてまつる。光雲のごとくにして、無碍なること虚空のごとし。かるがゆえに仏をまた無碍光と号す。一切の有碍、光沢を蒙る。このゆえに難思議を頂礼したてまつる。清浄の光明、対あることなし。かるがゆえに仏をまた無対光と号す。この光に遇う者は業繫を除こる、このゆえに畢竟依を稽首したてまつる。仏光照耀して最第一なり。かるがゆえに仏をまた光炎王と号す。三塗の黒闇、光啓を蒙る。このゆえに大応供を頂礼したてまつる。道光明朗にして、色超絶したまえり。かるがゆえに仏をまた清浄光と号す。一たび光照を蒙るに、罪垢除こる、みな解脱を得しむ。かるがゆえに頂礼したてまつる。慈光遥かに被らしめ安楽を施す。かるがゆえに仏をまた歓喜光と号す。光の至るところの処に法喜を得しむ。大安慰を稽首し頂礼したてまつる。仏光よく無明の闇を破す。かるがゆえに仏をまた智慧光と号す。一切諸仏三乗衆、ことごとく共に嘆誉す、かるがゆえに稽首したてまつる。光明一切の時、普く照らす。かるがゆえに仏をまた不断光と号す。聞光力のゆえに、心断えずしてみな往生を得しむ、かるがゆえに頂礼したてまつる。その光、仏を除きてはよく測ることなけん。かるがゆえに仏をまた難思光と号す。十方諸仏、往生を嘆じ、その功徳を称せしむ、かるがゆえに稽首したてまつる。神光は相を離れたること、名づくべからず。かるがゆえに仏をまた無称光と号す。光に因りて成仏したまう。光赫然たり。諸仏の嘆じたまうところなり。かるがゆえに頂礼したてまつる。光明照曜して日月に過ぎたり。かるがゆえに仏を超日月光と号す。釈迦仏嘆じたまうこと、なお尽きず。かるがゆえに我無等等を稽首したてまつる、と。乃至 34本師龍樹摩訶薩、形像を誕ず、始めて頽綱を理る。邪扇を関閉して、正轍を開く。これ閻浮提の一切の眼なり。尊語を伏承して、歓喜地にして阿弥陀に帰して安楽に生ぜしむ。我無始より三界に修りて、虚妄輪のために回転せらる。一念一時に造るところの業足、六道に繫がれ、三塗に滞る。唯、願わくは慈光我を護念して、我をして菩提心を失せざらしめたまえ。我、仏恵功徳の音を讃ず。願わくは十方のもろもろの有縁に聞かしめて、安楽に往生を得んと欲わん者、普くみな意のごとくして障碍なからしめん。あらゆる功徳もしは大小、一切に回施して、共に往生せしめん。不可思議光に南無し、一心に帰命し稽首し礼したてまつる。十方三世の無量慧、同じく一如に乗じて正覚と号す。二智円満して道平等なり。摂化すること縁に随う、故に若干ならん。我阿弥陀の浄土に帰するは、すなわちこれ諸仏の国を帰命するなり。我一心をもって一仏を賛ず、願わくは十方無碍人に遍ぜん。かくのごとき十方無量仏、ことごとくおのおの心を至して頭面に礼したてまつるなり、と。已上抄出

35(玄義分)光明寺の和尚云わく、問うて曰わく、弥陀浄国は当これ報なりや、これ化なりとやせん。答えて曰わく、これ報にして化にあらず。いかんが知ることを得る。『大乗同性経』に説くがごとし、西方の安楽・阿弥陀仏はこれ報仏報土なり、と。また『無量寿経』に云わく、法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして、菩薩の道を行じたまいし時、四十八願を発して、一一の願に言わく、「もし我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を称して、我が国に生まれんと願ぜん、下十念に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじ」と。いま既に成仏したまえり。すなわちこれ酬因の身なり。また『観経』の中に、上輩の三人、命終の時に臨みて、みな阿弥陀仏および化仏「与に」この人を来迎す、と言えり。しかるに報身、化を兼ねて共に来りて手を授く、と。かるがゆえに名づけて「与」とす。この文証をもってのゆえに、知りぬ、これ報なりと。36しかるに報応二身とは、眼目の異名なり。前には報を翻じて応と作る、後には応を翻じて報と作る。おおよそ報と言うは、因行虚しからず、定んで来果を招く。果をもって因に応ず。かるがゆえに名づけて報とす。また三大僧祇の所修の万行、必定して菩提を得べし。いま既に道成ぜり。すなわちこれ応身なり。これすなわち過現の諸仏、三身を弁立す。これを除きて已外は、更に別の体ましまさず。たとい無窮の八相、名号塵沙なり、体に剋してしかして論ぜば、すべて化に帰して摂す。今かの弥陀、現にこれ報なり、と。37問うて曰わく、既に報と言わば、報身常住にして永く生滅なし。なにがゆえぞ『観音授記経』に説かく、阿弥陀仏また入涅槃の時ありと。この一義いかんが通釈せんや。答えて曰わく、入・不入の義は、ただこれ諸仏の境界なり。なお三乗浅智の闚うところにあらず。あに況や小凡輙くよく知らんや。しかりといえども、必ず知らんと欲わば、敢て仏経を引きてもって明証とせん。いかんとならば、『大品経』の涅槃非化品の中に説きて云うがごとし。仏、須菩提に告げたまわく、「汝が意においていかん。もし化人ありて化人を作す、この化すこぶる実事ありやいなや。空しきものなりやいなや。」須菩提の言さく、「いなや、世尊。」仏、須菩提に告げたまわく、「色すなわちこれ化なり、受・想・行・識すなわちこれ化なり、乃至一切種智すなわちこれ化なり。」須菩提、仏に白して言さく、「世尊、もし世間の法これ化なりや、出世間の法またこれ化なりやと。いわゆる四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚分・八聖道分・三解脱門・仏十力・四無所畏・四無碍智・十八不共法、ならびに諸法の果および賢聖人、いわゆる須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏・菩薩摩訶薩・諸仏世尊、この法またこれ化なりやいなや」と。仏、須菩提に告げたまわく、「一切の法、みなこれ化なり。この法の中において、声聞の法の変化あり。辟支仏の法の変化あり。菩薩の法の変化あり。諸仏の法の変化あり。煩悩の法の変化あり。業因縁の法の変化あり。この因縁をもってのゆえに、須菩提、一切の法、みなこれ化なり」とのたまえり。須菩提、仏に白して言さく、「世尊、このもろもろの煩悩断は、いわゆる須陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏道はもろもろの煩悩の習を断ず、みなこれ変化なりやいなや」と。仏、須菩提に告げたまわく、「もし法の生滅の相あるは、みなこれ変化なり」とのたまえり。須菩提言さく、「世尊、何等の法か変化にあらざる」と。仏の言わく、「もし法の無生・無滅なる、これ変化にあらず」と。須菩提言さく、「何等かこれ不生・不滅にして変化にあらざる」と。仏の言さく、「誑相なき涅槃、この法変化にあらず」と。「世尊、仏自ら説きたまうがごとき、諸法平等にして声聞の作にあらず、辟支仏の作にあらず、もろもろの菩薩摩訶薩の作にあらず、諸仏の作にあらず。有仏・無仏、諸法の性、常に空なり。性空なる、すなわちこれ涅槃なり。いかんぞ涅槃の一法、化のごとくにあらざる」と。仏、須菩提に告げたまわく、「かくのごとし、かくのごとし。諸法は平等にして、声聞の所作にあらず、乃至性空なればすなわちこれ涅槃なり。もし新発意の菩薩、この一切の法みな畢竟じて性空なり、乃至涅槃もまたみな化のごとしと聞かば、心すなわち驚怖しなん。これ新発意の菩薩のために、ことさらに、生滅のものは化のごとし、不生不滅のものは化のごときにあらざるをと分別するをや。」いま既にこの聖教をもって験かに知りぬ、弥陀は定んでこれ報なり。たとい後に涅槃に入らん、その義妨なけん。もろもろの有智の者、知るべし、と。38問うて曰わく、「かの仏および土、既に報と言わば、報法高妙にして小聖階いがたし。垢障の凡夫いかんが入ることを得んや。」答えて曰わく、「もし衆生の垢障を論ぜば、実に欣趣しがたし。正しく仏願に託するによって、もって強縁と作りて、五乗斉しく入らしむることを致す」と。

39(序分義)また云わく、「我今楽生弥陀」より已下は正しく夫人別して所求を選ぶことを明かす。これは弥陀の本国四十八願なることを明かす。願願みな増上の勝因を発せり。因に依って勝行を起こせり。行に依って勝果を感ず。果に依って勝報を感成せり。報に依って極楽を感成せり。楽に依って悲化を顕通す。悲化に依って智慧の門を顕開せり。しかるに悲心無尽にして智また無窮なり。悲・智双べ行じて、すなわち広く甘露を開けり。これに因って法潤普く群生を摂したまうなり。諸余の経典に勧むるところ弥く多し。衆聖、心を斉しくしてみな同じく指讃したまう。この因縁ありて、如来密に夫人を遣わして別して選ばしめたまうことを致すなり。

40(定善義)また云わく、西方寂静無為の楽は、畢竟逍遥して有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること等しくして殊なることなし。帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな径たり。到る処に余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らん、と。

41(法事讃)また云わく、極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善、恐らくは生まれがたし。かるがゆえに如来、要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしめて、専らにしてまた専らならしめたまえり。

42また云わく、仏に従いて逍遥して自然に帰す。自然はすなわちこれ弥陀の国なり。無漏無生還りてすなわち真なり。行来進止に常に仏に随いて、無為法性身を証得す、と。

43また云わく、弥陀の妙果をば号して無上涅槃と曰う、と。已上抄出

44(述文賛)憬興師の云わく、無量光仏算数にあらざるがゆえに、無辺光仏縁として照らさざることなきがゆえに、無碍光仏人法としてよく障うることあることなきがゆえに、無対光仏諸菩薩の及ぶところにあらざるがゆえに、光炎王仏光明自在にして更に上とすることなきがゆえに、清浄光仏無貪の善根よりして現ずるがゆえに、また衆生貪濁の心を除くなり。貪濁の心なきがゆえに清浄と云う、歓喜光仏無瞋の善根よりして生ずるがゆえに、よく衆生の瞋恚盛心を除くがゆえに、智慧光仏無痴の善根の心より起これば、また衆生の無明品心を除くがゆえに、不断光仏仏の常光恒に照益をなすがゆえに、難思光仏もろもろの二乗の測度するところにあらざるがゆえに、無称光仏また余乗等、説くこと堪うるところにあらざるがゆえに、超日月光仏日は応じて恒に照らすこと周からず、娑婆一耀の光なるがゆえに、みなこれ光触を身に蒙るは、身心柔軟の願の致すところなり。已上抄要

45しかれば、如来の真説、宗師の釈義、明らかに知りぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。46惑染の衆生、ここにして性を見ることあたわず、煩悩に覆わるるがゆえに。『経』(涅槃経)には「我、十住の菩薩、少分仏性を見ると説く」と言えり。かるがゆえに知りぬ、安楽仏国に到れば、すなわち必ず仏性を顕す、本願力の回向に由るがゆえに。また『経』(涅槃経)には「衆生、未来に清浄の身を具足荘厳して、仏性を見ることを得」と言えり。

47(念仏三昧宝王論)『起信論』に曰わく、「もし説くといえども、能説のありて説くべきもなく、また能念の念ずべきもなしと知るを、名づけて随順とす。もし念を離るるを名づけて得入とす。」得入とは、真如三昧なり。いかにいわんや無念の位は妙覚にあり。けだしもって了心は初生の相なり。しかも初相を知ると言うは、いわゆる無念は菩薩十地の知るところにあらず。しかるに今の人、なお未だ十信に階わず、すなわち馬鳴大士に依らざらんや。説より無説に入り、念より無念に入る、とのたまえり。略抄

48それ報を案ずれば、如来の願海に由って果成の土を酬報せり。かるがゆえに報と曰うなり。

49しかるに願海について、真あり仮あり。ここをもってまた仏土について、真あり、仮あり。選択本願の正因に由って、真仏土を成就せり。真仏と言うは、『大経』には「無辺光仏・無碍光仏」と言えり。また「諸仏中の王なり、光明中の極尊なり」(大阿弥陀経)と言えり。已上 『論』(浄土論)には「帰命尽十方無碍光如来」と曰えるなり。真土と言うは、『大経』には「無量光明土」(平等覚経)と言えり。あるいは「諸智土」(如来会)と言えり。已上 『論』には「究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし」と曰うなり。往生と言うは、『大経』には「皆受自然虚無之身無極之体」と言えり。已上 『論』には「如来浄華衆正覚華化生」と曰えり。または「同一に念仏して無別の道故」(論註)と云えり。已上 また「難思議往生」(法事讃)と云える、これなり。50仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもって真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。かるがゆえに知りぬ、報仏土なりということを。良に仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを「方便化身・化土」と名づく。真仮を知らざるに由って、如来広大の恩徳を迷失す。51これに因って、いま真仏・真土を顕す。これすなわち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし、特に奉持すべきなり。知るべしとなり。

 

顕浄土真仏土文類五

 

顕浄土方便化身土文類六 本

     無量寿仏観経の意

 

     至心発願の願   邪定聚機

              双樹林下往生

 

     阿弥陀経の意なり

 

     至心回向の願   不定聚機

              難思往生

 

顕浄土方便化身土文類六

愚禿釈親鸞集

1謹んで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。2土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなわち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなわち疑城胎宮これなり。

3しかるに濁世の群萠、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといえども、真なる者は、はなはだもって難く、実なる者は、はなはだもって希なり。偽なる者は、はなはだもって多く、虚なる者は、はなはだもって滋し。4ここをもって釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまう。5すでにして悲願います。「修諸功徳の願」と名づく、6また「臨終現前の願」と名づく、また「現前導生の願」と名づく、また「来迎引接の願」と名づく。また「至心発願の願」と名づくべきなり。

7ここをもって、『大経』の願に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、我が国に生まれんと欲わん。寿終の時に臨んで仮令大衆と囲繞して、その人の前に現ぜずは、正覚を取らじ、と。

8『悲華経』の「大施品」に言わく、願わくは我阿耨多羅三藐三菩提を成り已らんに、その余の無量無辺阿僧祇の諸仏世界の所有の衆生、もし阿耨多羅三藐三菩提心を発し、もろもろの善根を修して、我が界に生まれんと欲わん者、臨終の時、我当に大衆と囲繞して、その人の前に現ずべし。その人我を見て、すなわち我が前にして心に歓喜を得ん。我を見るをもってのゆえに、もろもろの障閡を離れて、すなわち身を捨てて、我が界に来生せしめん、と。已上

9この願成就の文は、すなわち三輩の文これなり。『観経』の定散九品の文これなり。

10また『大経』に言わく、また無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里なり。その本、周囲五十由旬なり。枝葉四に布きて二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝の衆宝の王たるをもって、これを荘厳せり。乃至 阿難、もしかの国の人天、この樹を見るものは三法忍を得ん。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆえに、本願力のゆえに、満足願のゆえに、明了願のゆえに、堅固願のゆえに、究竟願のゆえなり、と。乃至 また講堂・精舎・宮殿・楼観みな七宝をもって荘厳し、自然に化成せり。また真珠・明月摩尼・衆宝をもって、もって交露とす。その上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。十由旬あるいは二十・三十乃至百千由旬なり。縦広深浅おのおのみな一等なり。八功徳水湛然として盈満せり。清浄香潔にして、味わい甘露のごとし、と。

11また言わく、それ胎生の者は処するところの宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのその中にしてもろもろの快楽を受くること、忉利天上のごとし。またみな自然なり。その時に慈氏菩薩、仏に白して言さく、世尊、何の因・何の縁あってか、かの国の人民、胎生・化生なる、と。仏、慈氏に告げたまわく、もし衆生ありて、疑惑心をもってもろもろの功徳を修して、かの国に生まれんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかもなお罪福を信じて、善本を修習して、その国に生まれんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まれて、寿五百歳、常に仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず。このゆえにかの国土にはこれを胎生という。乃至 弥勒、当に知るべし。かの化生の者は智慧勝れたるがゆえに。その胎生の者は、みな智慧なきなり。乃至 仏、弥勒に告げたまわく、たとえば転輪聖王のごとし。七宝の牢獄あらん。種種に荘厳し床帳を張設し、もろもろの繒幡を懸けたらん。もろもろの小王子、罪を王に得たらん、すなわちかの獄の中に内れて、繫ぐに金鎖をもってせん。乃至 仏、弥勒に告げたまわく、このもろもろの衆生またかくのごとし。仏智を疑惑するをもってのゆえに、かの胎宮に生まれん。乃至 もしこの衆生、その本の罪を識りて、深く自ら悔責して、かの処を離るることを求めん。乃至 弥勒、当に知るべし。それ菩薩ありて疑惑を生ぜば、大利を失すとす。已上抄出

12『如来会』に言わく、仏、弥勒に告げたまわく、もし衆生ありて、疑悔に随いて、善根を積集して、仏智・普遍智・不思議智・無等智・威徳智・広大智を希求せん。自らの善根において信を生ずることあたわず。この因縁をもって、五百歳において宮殿の中に住せん。乃至 阿逸多、汝、殊勝智の者を観ずるに、彼は広慧の力に因るがゆえに、かの蓮華の中に化生することを受けて、結跏趺座せん。汝、下劣の輩を観ずるに、乃至 もろもろの功徳を修習することあたわず。かるがゆえに因なくして無量寿仏に奉事せん。このもろもろの人等は、みな昔の縁、疑悔をなして致すところなればなり、と。乃至 仏、弥勒に告げたまわく、かくのごとし、かくのごとし。もし疑悔に随いてもろもろの善根を種えて、仏智乃至広大智を希求することあらん。自らの善根において信を生ずることあたわず。仏の名を聞くに由って信心を起こすがゆえに、かの国に生まるといえども、蓮華の中にして出現することを得ず。彼等の衆生、華胎の中に処すること、なお園苑宮殿の想のごとし、と。抄要

13『大経』に言わく、もろもろの小行の菩薩、および少功徳を修習する者、称計すべからざる、みな当に往生すべし、と。

14(如来会)また言わく、いわんや余の菩薩、少善根に由ってかの国に生まるる者、称計すべからず、と。已上

15光明寺の『釈』(定善義)に云わく、華に含まれて未だ出でず、あるいは辺界に生じ、あるいは宮胎に堕せん、と。已上

16(述文賛)憬興師の云わく、仏智を疑うに由って、かの国に生まれて、辺地にありといえども、聖化の事を被らず。もし胎生せば、宜しくこれを重く捨つべし、と。已上

17首楞厳院の『要集』に、感禅師(懐感)の『釈』(群疑論)を引きて云わく、「問う、『菩薩処胎経』の第二に説かく、「西方この閻浮提を去ること十二億那由他に懈慢界あり。乃至 意を発せる衆生、阿弥陀仏国に生まれんと欲する者、みな深く懈慢国土に着して、前進んで阿弥陀仏国に生まるることあたわず。億千万の衆、時に一人ありて、よく阿弥陀仏国に生ず」と云云。この経をもって准難するに、生を得べしや。答う、『群疑論』に善導和尚の前の文を引きてこの難を釈して、また自ら助成して云わく、「この『経』の下の文に言わく、「何をもってのゆえに、みな懈慢に由って執心牢固ならず」と。ここに知りぬ、雑修の者は「執心不牢の人」とす。かるがゆえに懈慢国に生ずるなり。もし雑修せずして専らこの業を行ぜば、これすなわち執心牢固にして、定めて極楽国に生まれん。乃至 また報の浄土に生ずる者は極めて少なし、化の浄土の中に生ずる者は少なからず。かるがゆえに『経』の別説、実に相違せざるなり」と。已上略抄

18しかればそれ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門の中に、第十八の願は「別願の中の別願」なりと顕開したまえり。『観経』の定散諸機は「極重悪人唯称弥陀」と勧励したまえるなり。濁世の道俗、善く自ら己が能を思量せよとなり。知るべし。

19問う。『大本』(大経)の三心と、『観経』の三心と、一異いかんぞや。20答う。釈家(善導)の意に依って、『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。21「顕」というは、すなわち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず、諸機の三心は自利各別にして利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなわちこれ「顕」の義なり。22「彰」というは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多・闍世の悪逆に縁って、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意に因って、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなわちこの経の隠彰の義なり。

23ここをもって『経』(観経)には「教我観於清浄業処」と言えり。「清浄業処」と言うは、すなわちこれ本願成就の報土なり。「教我思惟」と言うは、すなわち方便なり。「教我正受」と言うは、すなわち金剛の真心なり。「諦観彼国浄業成者」と言えり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。「広説衆譬」と言えり、すなわち十三観これなり。「汝是凡夫心想羸劣」と言えり、すなわちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。「諸仏如来有異方便」と言えり、すなわちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。「以仏力故見彼国土」と言えり、これすなわち他力の意を顕すなり。「若仏滅後諸衆生等」と言えり、すなわちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。「若有合者名為麁想」と言えり、これ定観成じがたきことを顕すなり。「於現身中得念仏三昧」と言えり、すなわちこれ、定観成就の益は念仏三昧を獲るをもって観の益とすることを顕す、すなわち観門をもって方便の教とせるなり。「発三種心即便往生」と言えり。また「復有三種衆生当得往生」と言えり。これらの文に依るに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。24良に知りぬ、これいましこの経に顕彰隠密の義あることを。二経の三心、将に一異を談ぜんとす。善く思量すべきなり。『大経』『観経』、顕の義に依れば異なり、彰の義に依れば一なり。知るべし。

25(玄義分)しかれば光明寺の和尚の云わく、しかるに娑婆の化主、その請に因るがゆえに、すなわち広く浄土の要門を開く。安楽の能人、別意の弘願を顕彰す。それ要門とは、すなわちこの『観経』の定散二門これなり。定はすなわち慮りを息めて、もって心を凝らす。散はすなわち悪を廃して、もって善を修す。この二行を回して、往生を求願せよとなり。弘願というは『大経』の説のごとし、といえり。

26また云わく、今この『観経』はすなわち観仏三昧をもって宗とす、また念仏三昧をもって宗とす、一心に回願して浄土に往生するを体とす、と。「教之大小」と言うは、問うて曰わく、この経は二蔵の中にはいずれの蔵にか摂する、二教の中にはいずれの教にか収むるや。答えて曰わく、今この『観経』は、菩薩蔵に収む、頓教の摂なり、と。

27(序分義)また云わく、また「如是」と言うは、すなわちこれは法を指す、定散両門なり。「是」とはすなわち定むる辞なり。機行必ず益す。これは如来の所説の言、錯謬なきことを明かす。かるがゆえに「如是」と名づく。また「如」と言うは、衆生の意のごとしとなり。心の所楽に随いて仏すなわちこれを度したまう。機教相応せるをまた称して「是」とす。かるがゆえに「如是」と言う。また「如是」と言うは、如来の所説を明かさんと欲す。漸を説くことは漸のごとし、頓を説くことは頓のごとし、相を説くこと相のごとし、空を説くこと空のごとし、人法を説くこと人法のごとし、天法を説くこと天法のごとし、小を説くこと小のごとし、大を説くこと大のごとし、凡を説くこと凡のごとし、聖を説くこと聖のごとし、因を説くこと因のごとし、果を説くこと果のごとし、苦を説くこと苦のごとし、楽を説くこと楽のごとし、遠を説くこと遠のごとし、近を説くこと近のごとし、同を説くこと同のごとし、別を説くこと別のごとし、浄を説くこと浄のごとし、穢を説くこと穢のごとし、一切の法を説くこと千差万別なり。如来の観知、歴歴了然として、心に随いて行を起こして、おのおの益すること同じからず。業果法然としてすべて錯失なし、また称して「是」とす。かるがゆえに「如是」と言う、と。

28また云わく、「欲生彼国者」より下「名為浄業」に至るまで已来は、正しく三福の行を勧修することを明かす。これは一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散なり。もし定行に依れば、すなわち生を摂するに尽きず。これをもって如来、方便して三福を顕開して、もって散動の根機に応じたまえり、と。

29(散善義)また云わく、また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。「自利真実」と言うは、また二種あり。一つには真実心の中に自他の諸悪および穢国等を制捨して行住座臥に「一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、我もまたかくのごとくせん」と想うなり。二つには真実心の中に、自他・凡聖等の善を懃修す。真実心の中の口業に、かの阿弥陀仏および依正二法を讃嘆す。また真実心の中の口業に、三界六道等の自他依正の二報の苦悪の事を毀厭す。また一切衆生の三業所為の善を讃嘆す。もし善業にあらずは、敬んでこれを遠ざかれ、また随喜せざれとなり。また真実心の中の身業に、合掌し礼敬し、四事等をもって、かの阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心の中の身業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。また真実心の中の意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し観察し憶念して、目の前に現ぜるがごとくす。また真実心の中の意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賎し厭捨す、と。乃至 また決定して「釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証賛して、人をして欣慕せしむ」と深信す、と。乃至 また深心の深信とは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執のために退失傾動せられざるなり、と。乃至 次に行に就いて信を立てば、しかるに行に二種あり。一つには正行、二つには雑行なり。正行と言うは、専ら往生経の行に依って行ずるは、これを正行と名づく。何ものかこれや。一心に専らこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦する。一心にかの国の二報荘厳を専注し、思想し、観察し、憶念する。もし礼せば、すなわち一心に専らかの仏を礼する。もし口に称せば、すなわち一心に専らかの仏を称せよ。もし讃嘆供養せば、すなわち一心に専ら讃嘆供養する。これを名づけて「正」とす、と。またこの正の中についてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。もし礼誦等に依るを、すなわち名づけて「助業」とす。この正助二行を除きて、已下の自余の諸善は、ことごとく「雑行」と名づく。もし前の正助二行を修するは、心常に親近し、憶念断えず、名づけて「無間」とするなり。もし後の雑行を行ずるは、すなわち心常に間断す。回向して生を得べしといえども、すべて「疎雑の行」と名づくるなり。かるがゆえに「深心」と名づく、と。三つには回向発願心。「回向発願心」と言うは、過去および今生の身口意業に修するところの世・出世の善根、および他の一切の凡・聖の身口意業に修するところの世・出世の善根を随喜して、この自他所修の善根をもって、ことごとくみな真実の深信の心の中に回向して、かの国に生まれんと願ず。かるがゆえに「回向発願心」と名づくるなり、と。

30(序分義)また云わく、定善は観を示す縁なり、と。

また云わく、散善は行を顕す縁なり、と。

(散善義)また云わく、浄土の要逢いがたし、と。文抄出

31(往生礼讃)また云わく、『観経』の説のごとし。まず三心を具して必ず往生を得。なんらをか三とする。一つには至誠心。いわゆる、身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。おおよそ三業を起こすに、必ず真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく、と。乃至 三つには回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、かるがゆえに「回向発願心」と名づく。この三心を具して必ず生を得るなり。もし一心少けぬればすなわち生を得ず。『観経』に具に説くがごとし。知るべし、と。乃至 また菩薩はすでに生死を勉れて、所作の善法、回して仏果を求む、すなわちこれ自利なり。衆生を教化して未来際を尽くす、すなわちこれ利他なり。しかるに今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繫縛せられて、未だ悪道生死等の苦を勉れず。縁に随いて行を起こして、一切の善根具に速やかに回して、阿弥陀仏国に往生せんと願ぜん。かの国に到り已りて更に畏るるところなけん。上のごときの四修、自然任運にして自利利他具足せざることなしと、知るべし、と。

32(往生礼讃)また云わく、もし専を捨てて雑業を修せんとする者は、百は時に希に一二を得、千は時に希に五三を得。何をもってのゆえに。いまし雑縁乱動す、正念を失するに由るがゆえに、仏の本願と相応せざるがゆえに、教と相違せるがゆえに、仏語に順ぜざるがゆえに、係念相続せざるがゆえに、憶想間断するがゆえに、回願慇重真実ならざるがゆえに、貪瞋諸見の煩悩来り間断するがゆえに、慚愧懺悔の心あることなきがゆえに。懺悔に三品あり。乃至 上・中・下なり。上品の懺悔とは、身の毛孔の中より血を流し、眼の中より血出だすをば、上品の懺悔と名づく。中品の懺悔とは、遍身に熱き汗毛孔より出ず、眼の中より血の流るるは、中品の懺悔と名づく。下品の懺悔とは、遍身徹り熱く、眼の中より涙出ずるをば、下品の懺悔と名づく。これらの三品、差別ありといえども、これ久しく解脱分の善根を種えたる人なり。今生に法を敬い、人を重くし身命を惜しまず、乃至小罪ももし懴すればすなわちよく心髄に徹りて、よくかくのごとく懴すれば、久近を問わず、所有の重障みなたちまちに滅尽せしむることをいたす。もしかくのごとくせざれば、たとい日夜十二時、急に走むれども終にこれ益なし。差うて作さざる者は、知りぬべし、と。流涙流血等にあたわずといえども、ただよく真心徹到する者は、すなわち上と同じ、と。已上

33(観念法門)また云わく、すべて余の雑業の行者を照摂すと論ぜず、と。

34(法事讃)また云わく、如来、五濁に出現して、よろしきに随いて方便して群萠を化したまう。あるいは「多聞にして得度す」と説き、あるいは「少しき解りて三明を証す」と説く、あるいは「福恵双べて障を除く」と教え、あるいは「禅念して座して思量せよ」と教う。種種の法門みな解脱す、と。

35(般舟讃)また云わく、万劫功を修せんこと実に続きがたし。一時に煩悩百たび千たび間わる。もし娑婆にして法忍を証せんことを待たば、六道にして恒沙の劫にも未だ期あらじ。門門不同なるを漸教と名づく。万劫苦行して無生を証す。畢命を期として、専ら念仏すべし。須臾に命断うれば、仏迎え将てまします。一食の時なお間あり、いかんが万劫に貪瞋せざらん。貪瞋は人天を受くる路を障う。三悪・四趣の内に身を安んず、と。抄要

36(般舟讃)また云わく、定散ともに回して宝国に入れ、すなわちこれ如来の異の方便なり。韋提はすなわちこれ女人の相、貪瞋具足の凡夫の位なり、と。已上

37『論註』に曰わく、二種の功徳相あり。一つには有漏の心より生じて法性に順ぜず。いわゆる凡夫・人天の諸善、人天の果報、もしは因・もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。かるがゆえに、不実の功徳と名づく、と。已上

38『安楽集』に云わく、『大集経』の「月蔵分」を引きて言わく、我が末法の時の中に億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得る者あらじ、と。当今は末法なり。この五濁悪世には、ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と。

39また云わく、未だ一万劫を満たざる已来は、恒に未だ火宅を勉れず、顛倒墜堕するがゆえに。おのおの用功は至りて重く、獲る報は偽なり、と。已上

40しかるに今『大本』(大無量寿経)に拠るに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には方便・真実の教を顕彰す。『小本』(阿弥陀経)には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもって三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなわちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。41これに依って方便の願を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願は、すなわちこれ臨終現前の願なり。行は、すなわちこれ修諸功徳の善なり。信は、すなわちこれ至心発願欲生の心なり。42この願の行信に依って、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正・助・雑の三行を出だせり。この正助の中について、専修あり雑修あり。機について二種あり。一つには定機、二つには散機なり。また二種の三心あり。また二種の往生あり。二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心は、すなわち自利各別の心なり。二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とは、すなわちこれ胎生辺地・双樹林下の往生なり。即往生とは、すなわちこれ報土化生なり。43またこの『経』に真実あり。これすなわち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまう。報土の真因は信楽を正とするがゆえなり。ここをもって『大経』には「信楽」と言えり。如来の誓願疑蓋雑わることなきがゆえに「信」と言えるなり。『観経』には「深心」と説けり。諸機の浅信に対せるがゆえに「深」と言えるなり。『小本』には「一心」と言えり、二行雑わることなきがゆえに「一」と言えるなり。また一心について深あり浅あり。「深」とは利他真実の心これなり、「浅」とは定散自利の心これなり。44宗師(善導)の意に依るに、「心に依って勝行を起こせり、門八万四千に余れり、漸・頓すなわちおのおの所宜に称いて、縁に随う者、すなわちみな解脱を蒙れり」(玄義分)と云えり。45しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきがゆえに、「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかつて開けず」(定善義)と言えり。いかに況や無相離念誠に獲がたし。かるがゆえに「如来懸に末代罪濁の凡夫を知ろしめす。立相住心なお得ることあたわじと。いかに況や相を離れて事を求むるは、術通なき人の、空に居て舎を立てんがごときなり」(定善義)と言えり。46「門余」と言うは、「門」はすなわち八万四千の仮門なり、「余」はすなわち本願一乗海なり。47おおよそ一代の教について、この界の中にして入聖得果するを「聖道門」と名づく、「難行道」と云えり。この門の中について、大小、漸頓、一乗・二乗・三乗、権実、顕密、竪出・竪超あり。すなわちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。48安養浄刹にして入聖証果するを「浄土門」と名づく、「易行道」と云えり。この門の中について、横出・横超、仮・真、漸・頓、助・正・雑行、雑修・専修あるなり。49「正」とは五種の正行なり。「助」とは名号を除きて已外の五種これなり。「雑行」とは正助を除きて已外をことごとく雑行と名づく。これすなわち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。50「横超」とは、本願を憶念して自力の心を離るる、これを「横超他力」と名づくるなり。これすなわち専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり、これすなわち真宗なり。すでに「真実行」の中に顕し畢りぬ。51それ雑行・雑修、その言一つにしてその意これ異なり。「雑」の言において、万行を摂入す。五正行に対して、五種の雑行あり。「雑」の言は、人天・菩薩等の解行雑せるがゆえに「雑」と曰えり。本より往生の因種にあらず、回心回向の善なり、かるがゆえに「浄土の雑行」と曰うなり。また「雑行」について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。「専行」とは、専ら一善を修す、かるがゆえに「専行」と曰う。「専心」とは、回向を専らにするがゆえに「専心」と曰えり。「雑行・雑心」とは、諸善兼行するがゆえに「雑行」と曰う、定散心雑するがゆえに「雑心」と曰うなり。52また「正・助」について、専修あり雑修あり。この雑修について、専心あり雑心あり。「専修」について二種あり、一つにはただ仏名を称す、二つには五専あり。この「行業」について専心あり雑心あり。「五専」とは、一つには専礼、二つには専読、三つには専観、四つには専名、五つには専讃嘆なり、これを「五つの専修」と名づく。専修その言一つにして、その意これ異なり。すなわちこれ「定専修」なり、また「散専修」なり。「専心」とは、五正行を専らにして二心なきがゆえに、専心と曰う。すなわちこれ定専心なり、またこれ散専心なり。「雑修」とは、助正兼行するがゆえに雑修と曰う。「雑心」とは、定散の心雑するがゆえに雑心と曰うなり。知るべし。53おおよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集)と云い、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す、感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)と云えり、信和尚(源信・往生要集)は感師に依れり、空聖人(源空・選択集)は導和尚に依りたまうなり。経家によりて拠りて師釈を披くに、雑行の中の雑行雑心・雑行専心・専行雑心なり。また正行の中の専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。かるがゆえに極楽に生まるといえども、三宝を見たてまつらず、仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願、良に由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよ明らかなり。54二経の三心、顕の義に依れば異なり。彰の義に依れば一なり。三心一異の義、答え竟りぬと。

55また問う。『大本』と『観経』の三心と、『小本』の一心と、一異いかんぞや。56答う。いま方便真門の誓願について、行あり信あり、また真実あり方便あり。「願」とは、すなわち植諸徳本の願これなり。「行」とは、これに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。「信」とは、すなわち至心回向欲生の心これなり。「機」について定あり散あり。「往生」とは、これ難思往生これなり。「仏」とは、すなわち化身なり。「土」とは、すなわち疑城胎宮これなり。57『観経』に准知するに、この経にまた顕彰隠密の義あるべし。58「顕」と言うは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして、難思の往生を勧む。ここをもって『経』(襄陽石碑経)には「多善根・多功徳・多福徳の因縁」と説き、『釈』(法事讃)には「九品ともに回して、不退を得よ」と云えり。あるいは「無過念仏往西方 三念五念仏来迎」と云えり。これはこれこの経の顕の義を示すなり。これすなわち真門の中の方便なり。59「彰」と言うは、真実難信の法を彰す。これすなわち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。良に勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり、かるがゆえに「甚難」と言えるなり。『釈』(法事讃)に、「直ちに弥陀の弘誓重なれるに為って、凡夫念ずればすなわち生まれしむることを致す」と云えり。これはこれ隠彰の義を開くなり。

60『経』に「執持」と言えり、また「一心」と言えり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり、「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり、「心」の言は真実に名づくるなり。61この『経』は、大乗修多羅の中の無問自説経なり。しかれば、如来、世に出興したまうゆえは「恒沙の諸仏の証護の正意」ただこれにあるなり。62ここをもって、四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて濁世の邪偽を導く。63三経の大綱、顕彰隠密の義ありといえども、信心を彰して能入とす。かるがゆえに『経』の始めに「如是」と称す。「如是」の義はすなわち善く信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもって金剛の真心を最要とせり。真心すなわち大信心なり。大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。何をもってのゆえに、大信心海ははなはだもって入りがたし、仏力より発起するがゆえに。真実の楽邦ははなはだもって往き易し、願力に藉ってすなわち生ずるがゆえなり。いま将に一心一異の義を談ぜんとす。当にこの意なるべしとなり。三経一心の義、答え竟りぬ。

64それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。65真門の方便について、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。66「雑心」とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す。良に教は頓にして根は漸機なり、行は専にして心は間雑す、かるがゆえに雑心と曰うなり。67「定散の専心」とは、罪福を信ずる心をもって本願力を願求す、これを「自力の専心」と名づくるなり。68「善本」とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。かるがゆえに善本と曰うなり。69「徳本」とは如来の徳号なり。この徳号は、一声称念するに、至徳成満し、衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。かるがゆえに徳本と曰うなり。70しかればすなわち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり。71すでにして悲願います。「植諸徳本の願」と名づく、また「係念定生の願」と名づく、また「不果遂者の願」と名づく。また「至心回向の願」と名づくべきなり。

72ここをもって『大経』の願に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの善本を植えて、心を至し回向して、我が国に生まれんと欲わん。果遂せずは正覚を取らじ、と。

73また言わく、この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになお罪福を信じて、善本を修習して、その国に生まれんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まる、と。

74また言わく、もし人善本なければ、この経を聞くことを得ず。清浄に戒をたもてる者、いまし正法を聞くことを獲ん、と。已上

75『無量寿如来会』に言わく、もし我成仏せんに、無量国の中の所有の衆生、我が名を説かんを聞きて、もって己が善根として極楽に回向せん。もし生まれずは菩提を取らじ、と。已上

76『平等覚経』に言わく、この功徳あるにあらざる人は、この経の名を聞くことを得ず。ただ清浄に戒をたもてる者、いまし還りてこの正法を聞く。悪と憍慢と蔽と懈怠とは、もってこの法を信ずること難し。宿世の時に仏を見たてまつれる者、楽みて世尊の教を聴聞せん。人の命希に得べし。仏は世にましませどもはなはだ値いがたし。信慧ありて致るべからず。もし聞見せば精進して求めよ、と。已上

77『観経』に言わく、仏、阿難に告げたまわく、「汝好くこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。已上

78『阿弥陀経』に言わく、少善根福徳の因縁をもって、かの国に生まるることを得べからず。阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ、と。已上

79(定善義)光明寺の和尚の云わく、自余の衆行はこれ善と名づくといえども、もし念仏に比ぶれば、まったく比校にあらざるなり。このゆえに諸経の中に処処に広く念仏の功能を讃めたり。『無量寿経』の四十八願の中のごとき、ただ弥陀の名号を専念して生を得と明かす。また『弥陀経』の中のごとし、「一日・七日弥陀の名号を専念して生を得」と。また「十方恒沙の諸仏の証誠虚しからざるなり。」またこの『経』(観経)の定散の文の中に、ただ「名号を専念して生を得」と標す。この例一にあらざるなり。広く念仏三昧を顕し竟りぬ、と。

80(散善義)また云わく、また決定して「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して、決定して生を得」と深信せよ。乃至 諸仏は言行あい違失したまわず。たとい釈迦、指えて一切凡夫を勧めて、この一身を尽くして専念専修して、捨命已後定んでかの国に生まるるは、すなわち十方の諸仏ことごとくみな同じく賛め、同じく勧め、同じく証したまう。何をもってのゆえに、同体の大悲のゆえに。一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなわちこれ一仏の所化なり。すなわち『弥陀経』の中に説かく、乃至 また一切凡夫人を勧めて「一日・七日、一心にして弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得ん」と。次下の文に云わく、十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦を賛めたまわく「よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪煩悩・悪邪無信の盛りなる時において、弥陀の名号を指賛して、衆生を勧励して称念せしむれば、必ず往生を得」と。すなわちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏れて、すなわち共に同心・同時におのおの舌相を出だしてあまねく三千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、「汝等衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切凡夫、罪福の多少、時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得ること、必ず疑いなきなり。」このゆえに一仏の所説は、一切仏同じくその事を証誠したまうなり。これを「人に就いて信を立つ」と名づくるなり。抄要

81また云わく、しかるに仏願の意を望むには、ただ正念を勧め、名を称せしむ。往生の義疾きことは、雑散の業には同じからず。この経および諸部の中に、処処に広く嘆ずるがごときは、勧めて名を称せしむるを将に要益とせんとするなり。知るべし、と。

82また云わく、「仏告阿難 汝好持是語」より已下は、正しく弥陀の名号を付嘱して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといえども、仏の本願の意を望まんには、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにあり、と。

83(法事讃)また云わく、極楽は無為涅槃の界なり、随縁の雑善恐らくは生まれがたし。かるがゆえに如来、要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしめて、専らにしてまた専らならしめたまえり、と。

84また云わく、劫尽きんと欲する時、五濁盛りなり。衆生邪見にしてはなはだ信じがたし。専らにして専らなれと指授して西路に帰せしめしに、他のために破壊せられて還りてもとのごとし。曠劫より已来常にかくのごとし。これ今生に始めて自ら悟るにあらず。正しく好き強縁に遇わざるに由って、輪回して得度しがたからしむることを致す、と。

85また云わく、種種の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるはなし。上一形を尽くし、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまう。直ちに弥陀の弘誓重なれるをもって、凡夫念ずればすなわち生ぜしむることを致す、と。

86(般舟讃)また云わく、一切如来、方便を設けたまうこと、また今日の釈迦尊に同じ。機に随いて法を説くに、みな益を蒙る。おのおの悟解を得て真門に入れ、と。乃至 仏教多門にして八万四なり。正しく衆生の機不同なるがためなり。安身常住の処を覓めんと欲わば、先ず要行を求めて真門に入れ、と。

87(往生礼讃)また云わく、それこのごろ自ら諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専修に異あり。ただ意を専らにして作さしむれば、十はすなわち十ながら生ず。雑を修するは至心ならざれば、千が中に一もなし、と。已上

88元照律師の『弥陀経義疏』に云わく、如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。先ず余善を貶して少善根とす。いわゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懴念・苦行・一切福業、 もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経に依って名号を執持せば、決定して往生せん。すなわち知りぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解を作ししに、人なお遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理り冥符せり。始めて深信を懐く。彼に云わく、「善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもってのゆえに、諸罪消滅す。すなわちこれ多功徳・多善根・多福徳の因縁なり」と。已上

89孤山(智円)の『疏』(弥陀経疏)に云わく、「執持名号」とは、「執」とはいわく執受なり、「持」とはいわく住持なり。信力のゆえに執受、心にあり。念力のゆえに住持して忘れず、と。已上

90『大本』(大経)に言わく、如来の興世、値い難く見たてまつり難し。諸仏の経道、得難く聞き難し。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇い、法を聞きよく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持すること、難の中の難、これに過ぎて難きはなけん。このゆえに我が法、かくのごとく作しき、かくのごとく説く、かくのごとく教う。当に信順して、法のごとく修行すべし、と。已上

91『涅槃経』(迦葉品)に言わく、経の中に説くがごとし、「一切梵行の因は善知識なり。一切梵行の因、無量なりといえども、善知識を説けばすなわちすでに摂尽しぬ。」我が所説のごとし、一切悪行は邪見なり。一切悪行の因、無量なりといえども、もし邪見を説けばすなわちすでに摂尽しぬ。あるいは説かく、阿耨多羅三藐三菩提は信心を因とす。これ菩提の因また無量なりといえども、もし信心を説けばすなわちすでに摂尽しぬ、と。

92また言わく、善男子、信に二種あり。一つには信、二つには求なり。かくのごときの人、また信ありといえども、推求にあたわざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。信にまた二種あり、一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて、思より生ぜず、このゆえに名づけて「信不具足」とす。また二種あり。一つには道あることを信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず、これを名づけて「信不具足」とす。また二種あり。一つには信正、二つには信邪なり。因果あり、仏・法・僧ありと言わん、これを信正と名づく。因果なく、三宝の性、異なりと言いて、もろもろの邪語富闌那等を信ずる、これを信邪と名づく。この人、仏・法・僧宝を信ずといえども、三宝の同一性相を信ぜず。因果を信ずといえども得者を信ぜず。このゆえに名づけて「信不具足」とす。この人、不具足の信を成就す、と。乃至 善男子、四つの善事あり、悪果を獲得せん。何等をか四とする。一つには勝他のためのゆえに経典を読誦す。二つには利養のためのゆえに禁戒を受持せん。三つには他属のためのゆえにして布施を行ぜん。四つには非想非非想処のためのゆえに繫念思惟せん。この四つの善事、悪果報を得ん。もし人かくのごときの四事を修習せん、これを、没して、没し已りて還りて出ず、出で已りて還りて没す、と名づく。何がゆえぞ「没」と名づくる、三有を楽うがゆえに。何がゆえぞ「出」と名づくる、明を見るをもってのゆえに。「明」はすなわちこれ戒・施・定を聞くなり。何をもってのゆえに還りて出没するや。邪見を増長し、憍慢を生ずるがゆえに。このゆえに我経の中において偈を説かく、「もし衆生ありて諸有を楽んで、有のために善悪の業を造作する、この人は涅槃道を迷失するなり。これを暫出還復没と名づく。黒闇生死海を行じて解脱を得といえども、煩悩を雑するは、この人還りて悪果報を受く、これを暫出還復没と名づく」と。如来にすなわち二種の涅槃あり。一つには有為、二つには無為なり。有為涅槃は、常楽我浄なし。無為涅槃は、常楽我浄あり。(乃至)この人、深くこの二種の戒ともに善果ありと信ぜん。このゆえに名づけて戒不具足とす、この人は信・戒の二事を具せず。所楽多聞にして、また不具足なり。いかなるをか名づけて「聞不具足」とする。如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じて未だ六部を信ぜず、このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受持すといえども、読誦にあたわずして他のために解説するは、利益するところなけん、このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受け已りて、論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のためのゆえに、持読誦説せん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす、と。略抄

93(徳王品)また言わく、善男子、第一真実の善知識は、いわゆる菩薩、諸仏なり。世尊、何をもってのゆえに。常に三種の善調御をもってのゆえなり。何等をか三とする。一つには畢竟軟語、二つには畢竟呵責、三つには軟語呵責なり。この義をもってのゆえに、菩薩・諸仏はすなわちこれ真実の善知識なり。また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆえに、「善知識」と名づく。何をもってのゆえに。病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆえに。たとえば良医の善き八種の術のごとし。まず病相を観ず。相に三種あり。何等をか三とする。いわく風・熱・水なり。風病の人にはこれに蘇油を授く。熱病の人にはこれに石蜜を授く。水病の人にはこれに薑湯を授く。病根を知るをもって、薬を授くるに差ゆることを得、かるがゆえに「良医」と名づく。仏および菩薩またかくのごとし。もろもろの凡夫の病を知るに三種あり。一つには貪欲、二つには瞋恚、三つには愚痴なり。貪欲の病には教えて骨相を観ぜしむ。瞋恚の病には慈悲相を観ぜしむ。愚痴の病には十二縁相を観ぜしむ。この義をもってのゆえに、諸仏・菩薩を「善知識」と名づく。善男子、たとえば船師の善く人を度すがゆえに「大船師」と名づくるがごとし。諸仏・菩薩もまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもってのゆえに「善知識」と名づく、と。抄出

94『華厳経』(唐訳・入法界品)に言わく、汝、善知識を念ずるに、我を生める、父母のごとし。我を養う、乳母のごとし。菩提分を増長す、衆疾を医療するがごとし。天の、甘露を灑ぐがごとし。日の、正道を示すがごとし。月の、浄輪を転ずるがごとし。

95また言わく、如来大慈悲、世間に出現して、普くもろもろの衆生のために、無上法輪を転じたまう。如来、無数劫に勤苦せしことは衆生のためなり。いかんぞもろもろの世間、よく大師の恩を報ぜん、と。已上

96(般舟讃)光明寺の和尚の云わく、ただ恨むらくは、衆生の疑うまじきを疑うことを。浄土対面して相忤わず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。意専心にして回すると回せざるにあり。あるいは道わく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いずれの時いずれの劫にか娑婆を出でん。いかんしてか今日宝国に至ることを期せん。実にこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土いかんしてか入らん。浄土に生まるることを得て慈恩を報ぜよ、と。

97(往生礼讃)また云わく、仏世はなはだ値いがたし。人、信慧あること難し。遇希有の法を聞くこと、これまた最も難しとす。自ら信じ人を教えて信ぜしむること、難の中に転たまた難し。大悲弘く普く化するは、真に仏恩を報ずるに成る、と。

98(法事讃)また云わく、帰去来、他郷には停まるべからず。仏に従いて、本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず。悲喜交わり流る。深く自ら度るに、釈迦仏の開悟に因らずは、弥陀の名願いずれの時にか聞かん。仏の慈恩を荷いても、実に報じ難し、と。

99また云わく、十方六道、同じくこれ輪回して際なし、修修として愛波に沈みて、苦海に沈む。仏道・人身得難くして今すでに得たり。浄土聞き難くして今すでに聞けり、信心発し難くして今すでに発せり、と。已上

100真に知りぬ。専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。かるがゆえに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし、業行を作すといえども心に軽慢を生ず。常に名利と相応するがゆえに、人我おのずから覆いて同行・善知識に親近せざるがゆえに、楽みて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆえに」(往生礼讃)と云えり。101悲しきかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定散心雑するがゆえに、出離その期なし。自ら流転輪回を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲歎すべし。102おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり。

103ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。104ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。

105信に知りぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、まったく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萠、斉しく悲引したまうをや。106ここをもって経家に拠りて師釈を披きたるに、「説人の差別を弁ぜば、おおよそ諸経の起説、五種に過ぎず。一つには仏説、二つには聖弟子説、三つには天仙説、四つには鬼神説、五つには変化説なり。」しかれば四種の所説は信用に足らず。この三経はすなわち大聖の自説なり。

107『大論』(大智度論)に四依を釈して云わく、涅槃に入りなんとせし時、もろもろの比丘に語りたまわく、「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。「義に依る」とは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。かるがゆえに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人、指をもって月を指う、もって我を示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人、語りて言わん、「我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや」と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもってのゆえに、語に依るべからず。「依智」とは、智はよく善悪を籌量し分別す。識は常に楽を求む、正要に入らず、このゆえに「不応依識」と言えり。「依了義経」とは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書の中に仏法第一なり。一切衆の中に比丘僧第一なり。無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり、見仏の善根を種えざる人なり、と。已上

しかれば末代の道俗、善く四依を知りて法を修すべきなりと。

108しかるに正真の教意に拠って、古徳の伝説を披く。聖道・浄土の真仮を顕開して、邪偽・異執の外教を教誡す。如来涅槃の時代を勘決して、正・像・末法の旨際を開示す。

109(安楽集)ここをもって、玄中寺の綽和尚の云わく、しかるに修道の身、相続して絶えずして、一万劫を径て、始めて不退の位を証す。当今の凡夫は、現に「信想軽毛」と名づく、また「仮名」と曰えり、また「不定聚」と名づく、また「外の凡夫」と名づく。未だ火宅を出でず。何をもって知ることを得んと。『菩薩瓔珞経』に拠って、つぶさに入道行位を弁ずるに、法爾なるがゆえに「難行道」と名づく、と。

110また云わく、教興の所由を明かして時に約し機に被らしめて、浄土に勧帰することあらば、もし機と教と時と乖けば、修し難く入り難し。『正法念経』に云わく、「行者一心に道を求めん時、常に当に時と方便とを観察すべし。もし時を得ざれば方便なし、これを名づけて失とす、利と名づけず。いかんとならば、湿える木を攅りて、もって火を求めんに、火得べからず、時にあらざるがゆえに。もし乾たる薪を折りてもって水を覓むるに、水得べからず、智なきがごときのゆえに」と。『大集月蔵経』に云わく、「仏滅度の後の第一の五百年には、我がもろもろの弟子、慧を学ぶこと堅固を得ん。第二の五百年には、定を学ぶこと堅固を得ん。第三の五百年には、多聞読誦を学ぶこと堅固を得ん。第四の五百年には、塔寺を造立し福を修し懺悔すること堅固を得ん。第五の五百年には、白法隠滞して多く諍訟あらん。微しき善法ありて堅固を得ん。」今の時の衆生を計るに、すなわち仏、世を去りたまいて後の第四の五百年に当れり。正しくこれ懺悔し福を修し、仏の名号を称すべき時の者なり。一念阿弥陀仏を称するに、すなわちよく八十億劫の生死の罪を除却せん。一念すでに爾なり、いわんや常念を修するは、すなわちこれ恒に懺悔する人なり。

111また云わく、経の住滅を弁ぜば、いわく釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅せん。如来、痛焼の衆生を悲哀して、特にこの経を留めて、止住せんこと百年ならん、と。

112また云わく、『大集経』に云わく、「我が末法の時の中の億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得るものあらじ」と。当今、末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と。已上

113しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、己が分を思量せよ。

114三時教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘うるに、周の第五の主、穆王五十一年壬申に当れり。その壬申より我が元仁元年甲申に至るまで、二千一百八十三歳なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説に依るに、已にもって末法に入りて六百八十三歳なり。

115『末法燈明記』最澄製作を披閲するに曰わく それ一如に範衛してもって化を流す者は法王、四海に光宅してもって風を垂るる者は仁王なり。しかればすなわち仁王・法王、たがいに顕れて物を開し、真諦・俗諦、たがいに因って教を弘む。このゆえに玄籍宇の内に盈ち、嘉猶天下に溢てり。ここに愚僧等、率して天網に容り、俯して厳科を仰ぐ、未だ寧処に遑あらず。しかるに法に三時あり、人また三品なり。化制の旨、時に依りて興替す。毀讃の文、人に逐って取捨す。それ三古の運、減衰同じからず、後五の機、慧悟また異なり。あに一途に拠って済わんや、一理について整さんや。かるがゆえに正・像・末の旨際を詳らかにして、試みに破持僧の事を彰さん。中において三あり。初めには正像末を決す、次に破持僧の事を定む、後に教を挙げて比例す。

116初めに正像末を決するに、諸説を出だすこと同じからず。しばらく一説を述せん。大乗基(慈恩大師・弥勒上生経疏)に、『賢劫経』を引きて言わく、「仏涅槃の後、正法五百年、像法一千年ならん、この千五百年の後、釈迦の法滅尽せん」と。末法を言わず。余の所説に准うるに、尼、八敬に順わずして懈怠なるがゆえに、法更に増せず。かるがゆえに彼によらず。また『涅槃経』に「末法の中において、十二万の大菩薩衆ましまして、法に持ちて滅せず」と。これは上位に拠るがゆえにまた用いず。問う。もししからば、千五百年の内の行事いかんぞや。答う。『大術経』(摩訶摩耶経)に依るに、「仏涅槃の後の初めの五百年には、大迦葉等の七賢聖僧、次第に正法を持ちて滅せず。五百年の後、正法滅尽せんと。六百年に至りて後、九十五種の外道競い起こらん。馬鳴、世に出でて、もろもろの外道を伏せん。七百年の中に、龍樹、世に出でて邪見の幢を摧かん。八百年において、比丘縦逸にして、わずかに一・二、道果を得るものあらん。九百年に至りて、奴を比丘とし、婢を尼とせん。一千年の中に、不浄観を聞かん、瞋恚して欲せじ。千一百年に僧尼嫁娶せん、僧毘尼を毀謗せん。千二百年に、もろもろの僧尼等、ともに子息あらん。千三百年に、袈裟変じて白からん。千四百年に、四部の弟子、みな猟師のごとし、三宝物を売らん。ここに曰わく、千五百年に睒弥国に二の僧ありて、たがいに是非を起こして遂に殺害せん、仍って教法龍宮に蔵まるなり。」『涅槃』の十八、および『仁王』(第八)等にまたこの文あり。これらの経文に準ずるに、千五百年の後、戒・定・慧あることなきなり。かるがゆえに『大集経』の五十一(巻五五)に言わく、「我が滅度の後、初めの五百年には、もろもろの比丘等、我が正法において解脱堅固ならん、初めに聖果を得、名づけて解脱とす。次の五百年には禅定堅固ならん。次の五百年には多聞堅固ならん。次の五百年には造寺堅固ならん。後の五百年には闘諍堅固ならん。白法隠没せん」と云云。この意、初めの三分の五百年は、次いでのごとく戒定慧の三法堅固に住することを得ん。すなわち上に引くところの正法五百年、像法一千の二時これなり。造寺已後は並びにこれ末法なり。かるがゆえに基、『般若会釈』(金剛般若論会釈)に云わく、「正法五百年、像法一千年、この千五百年の後正法滅尽せん」と。かるがゆえに知りぬ、已後はこれ末法に属す。問う。もししからば今の世は正しくいずれの時にか当るや。答う。滅後の年代多説ありといえども、しばらく両説を挙ぐ。一つには法上師等、『周異』の説に依って言わく、「仏、第五の主、穆王満五十一年壬申に当りて入滅したまう」と。もしこの説に依らば、その壬申より我が延暦二十年辛巳に至るまで、一千七百五十歳なりと。二つには費長房等、魯の『春秋』に依らば、「仏、周の第二十一の主、匡王班の四年壬子に当りて入滅したまう。」もしこの説に依らば、その壬子より我が延暦二十年辛巳に至るまで、一千四百十歳なり。かるがゆえに今の時のごときは、これ最末の時なり。かの時の行事、すでに末法に同ぜり。しかればすなわち末法の中においては、ただ言教のみありて行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、何の戒を破せんに由ってか破戒あらんや。破戒なおなし、いかにいわんや持戒をや。かるがゆえに『大集』に云わく、「仏涅槃の後、無戒洲に満たん」と、云云。

117問う。諸経律の中に、広く破戒を制して衆に入ることを聴さず。破戒なお爾なり、いかに況や無戒をやと。しかるにいま重ねて末法を論ずるに、戒なし。あに瘡なくして自らもって傷まんや、と。答う。この理しからず。正・像・末法の所有の行事、広く諸経に載せたり。内外の道俗誰か披諷せざらん。あに自身の邪活を貪求して、持国の正法を隠蔽せんや。ただし今論ずるところの末法には、ただ名字の比丘あらん。この名字を世の真宝とせん。福田なからんや。たとい末法の中に持戒あらば、すでにこれ怪異なり、市に虎あらんがごとし。これ誰が信ずべきや。118問う。正・像・末の事、すでに衆経に見えたり。末法の名字を世の真宝とせんことは、聖典に出でたりや。答う。『大集』の第九に云わく、「たとえば真金を無価の宝とせんがごとし。もし真金なくは、銀を無価の宝とす。もし銀なくは、鍮石・偽宝を無価とす。もし偽宝なくは、赤白銅鉄・白鑞鉛錫を無価とす。かくのごとき一切世間の宝なれども、仏法無価なり。もし仏宝ましまさずは、縁覚無上なり。もし縁覚なくは、羅漢無上なり。もし羅漢なくは、余の賢聖衆、もって無上なり。もし余の賢聖衆なくは、得定の凡夫、もって無上とす。もし得定の凡夫なくは、浄持戒をもって無上とす。もし浄持戒なくは、漏戒の比丘をもって無上とす。もし漏戒なくは、剃除鬚髪して身に袈裟を着たる名字比丘を無上の宝とす。余の九十五種の異道に比するに最も第一とす。世の供を受くべし、物のための初めの福田なり。何をもってのゆえに。能身を破る衆生、怖畏するところなるがゆえに。護持し養育してこの人を安置することあらんは、久しからずして忍地を得ん」と。已上経文

この中に八重の無価あり。いわゆる如来像、縁覚、声聞および前三果、得定の凡夫、持戒、破戒、無戒名字、それ次いでのごとし、名づけて正像末の時の無価の宝とするなり。初めの四つは正法時、次の三つは像法時、後の一つは末法時なり。これに由って明らかに知りぬ、破戒・無戒、ことごとくこれ真宝なり、と。

119問う。伏して前の文を観るに、破戒名字、真宝ならざることなし。何がゆえぞ、『涅槃』と『大集経』に、「国王・大臣、破戒の僧を供すれば、国に三災起こり、遂に地獄に生ず」と。破戒なおしかなり、いかに況や無戒をや。しかるに如来一つの破戒において、あるいは毀り、あるいは讃む。あに一聖の説に両判の失あるをや。答う。この理しからず。『涅槃』等の経に、しばらく正法の破戒を制す、像・末代の比丘にはあらず。その名同じといえども、時に異あり。時に随いて制許す、これ大聖の旨破なり。世尊において両判の失ましまさず。120問う。もししからば何をもってか知らん、『涅槃』等の経は、ただ正法所有の破戒を制止して、像末の僧にあらずとは。答う。引くところの『大集』の所説の八重の真宝のごとし、これその証なり。みな時に当たりて無価とす。かるがゆえに、ただし正法の時の破戒比丘は清浄衆を穢す。かるがゆえに仏固く禁制して衆に入れず。しかるゆえは、『涅槃』の第三に云わく、「如来いま無上の正法をもって、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付嘱したまえり。乃至 破戒ありて正法を毀らば、王および大臣・四部の衆、当に苦治すべし。かくのごときの王臣等、無量の功徳を得ん。乃至 これ我が弟子なり、真の声聞なり、福を得ること無量ならん。」乃至 かくのごときの制文の法、往往衆多なり。みなこれ正法に明かすところの制文なり、像末の教にあらず。しかるゆえは、像季末法には正法を行ぜざれば、法として毀るべきなし、何をか「毀法」と名づけん。戒として破すべきなし、誰をか「破戒」と名づけん。またその時大王、行として護るべきなし、何に由ってか三災を出だし、および戒慧を失せんや。また像末には証果の人なし、いかんぞ二聖に聴護せらるることを明かさん。かるがゆえに知りぬ、上の所説はみな正法の世に持戒ある時に約して破戒あるがゆえなり。次に像法千年の中に、初めの五百年には、持戒ようやく減じ、破戒ようやく増せん。戒行ありといえども、証果なし。かるがゆえに『涅槃』の七に云わく、「迦葉菩薩、仏に白して言さく、「世尊、仏の所説のごときは、四種の魔あり。もし魔の所説および仏の所説、我当にいかんしてか分別することを得べき。もろもろの衆生ありて魔行に随逐せん。また仏説に随順することあらば、かくのごとき等の輩、またいかんが知らん」と。仏、迦葉に告げたまわく、「我涅槃して七百歳の後に、これ魔波旬ようやく起こりて、当にしきりに我が正法を壊すべし。たとえば猟師の身に法衣を服せんがごとし。魔波旬もまたかくのごとし。比丘像・比丘尼像・優婆塞・優婆夷像と作らんこと、またかくのごとしと。乃至 もろもろの比丘、奴婢・僕使・牛羊象馬・乃至銅鉄・釜鍑・大小銅盤・所須の物を受畜し、耕田種植・販売市易して、穀米を儲くることを聴すと。かくのごときの衆事、仏、大悲のゆえに衆生を憐愍して、みな蓄うることを聴さんと。かくのごときの経律は、ことごとくこれ魔説なり」」と云云。すでに「七百歳の後に、波旬ようやく起こらん」と云えり。かるがゆえに知りぬ。かの時の比丘、ようやく八不浄物を貪畜せん。この妄説を作さん。すなわちこれ魔の流なり。これらの経の中に、明らかに年代を指して具に行事を説けり。さらに疑うべからず。それ一文を挙ぐ。余はみな準知せよ。次に像法の後半、持戒減少し、破戒巨多ならん。かるがゆえに『涅槃』の六に云わく、乃至 また『十輪』に言わく、「もし我が法に依って出家して悪行を造作せん。これ沙門にあらずして自ら沙門と称し、また梵行にあらずして自ら梵行と称せん。かくのごときの比丘、よく一切の天・龍・夜叉、一切善法功徳伏蔵を開示して、衆生の善知識とならん。少欲知足ならずといえども、剃除鬚髪して、法服を被着せん。この因縁をもってのゆえに、よく衆生のために善根を増長せん。もろもろの天人において、善道を開示せん。乃至破戒の比丘、これ死せる人なりといえども、しかも戒の余才、牛黄のごとし。これ死するものといえども、人、ことさらにこれを取る。また麝香の、のちに用あるがごとし」と云云。すでに「迦羅林の中に、一つの鎮頭迦樹あり」と云えり。これは、像運すでに衰えて破戒濁世に僅に一二の持戒の比丘あらんに喩うるなりと。また云わく、「破戒の比丘、これ死せる人なりといえども、なお麝香の死して用あるがごとし、衆生の善知識となること。」明らかに知りぬ、この時ようやく破戒を許して世の福田とす、前の『大集』に同じと。次に像季の後、まったくこれ戒なし。仏、時運を知ろしめして、末俗を済わんがために、名字の僧を讃めて世の福田としたまえりと。また『大集』の五十二に云わく、「もし後の末世に、我が法の中において、剃除鬚髪し、身に袈裟を着たらん名字の比丘、もし檀越ありて捨施供養せば、無量の福を得ん」と。また『賢愚経』に言わく、「もし檀越、将来末世に法尽きんとせんに垂んとして、正しく妻を蓄え子を侠ましめん、四人以上の名字僧衆、当に礼敬せんこと、舎利弗、大目連等のごとくすべし」と。また云わく、「もし破戒を打罵し、身に袈裟を着たるを知ることなからん罪は、万億の仏身より血を出だすに同じからんと。もし衆生ありて、我が法のために、剃除鬚髪し、袈裟を被服せんは、たとい戒を持たずとも、彼等はことごとくすでに涅槃の印のために印せらるるなり」(大集経)。乃至 『大悲経』に云わく、「仏、阿難に告げたまわく、将来世において法滅尽せんとせん時、当に比丘・比丘尼ありて我が法の中において出家を得たらんもの、己が手に児の臂を牽きて、共に遊行して、かの酒家より酒家に至らん、我が法の中において非梵行を作さん。彼等酒の因縁たりといえども、この賢劫の中において、当に千仏ましまして興出したまわんに、我が弟子となるべしと。次に後に弥勒、当に我がところを補ぐべし。乃至最後の盧至如来まで、かくのごとき次第に、汝当に知るべし。阿難、我が法の中において、ただ性はこれ沙門の行にして、自ら沙門と称せん、形は沙門に似てひさしく袈裟を被着することあらしめんは、賢劫において弥勒を首として乃至盧至如来まで、かのもろもろの沙門、かくのごときの仏の所にして、無余涅槃において次第に涅槃に入ることを得ん。遺余あることなけん。何をもってのゆえに。かくのごとき一切沙門の中に、乃至一たび仏の名を称し、一たび信を生ぜんものの所作の功徳、終に虚設ならじ。我仏智をもって法界を測知するがゆえなり」と云云。乃至 これらの諸経に、みな年代を指して、将来末世の名字比丘を世の尊師とすと。もし正法の時の制文をもって、末法世の名字僧を制せば、教・機あい乖き、人・法合せず。これに由って『律』に云わく、「非制を制するは、すなわち三明を断ず。記説するところこれ罪あり」と。この上に経を引きて配当し已訖りぬ。

121後に教を挙げて比例せば、末法法爾として正法毀壊し、三業記なし、四儀乖くことあらん。しばらく『像法決疑経』に云わく、乃至 また『遺教経』に云わく、乃至 また『法行経』に云わく、乃至 『鹿子母経』に云わく、乃至 また『仁王経』に云うがごとしと。乃至 已上略抄

 

顕浄土方便化身土文類六(末)

愚禿釈親鸞集

122それ、もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、

123『涅槃経』(如来性品)に言わく、仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ、と。略出

124『般舟三昧経』に言わく、優婆夷、この三昧を聞きて学ばんと欲わば、乃至 自ら仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道に事うることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ、と。已上

125また言わく、優婆夷、三昧を学ばんと欲わば、乃至 天を拝し神を祠祀することを得ざれ、と。略出

126『大乗大方等日蔵経』巻第八、「魔王波旬星宿品」の第八の二に言わく、その時に佉盧虱吒、天衆に告げて言わく、「このもろもろの月等、おのおの主儻あり。汝、四種の衆生を救済すべし。何者をか四とする。地上の人・諸龍・夜叉・乃至蝎等を救けん。かくのごときの類、みなことごとくこれを救けん。我、もろもろの衆生を安楽するをもってのゆえに、星宿を布置す。おのおの分部乃至摸呼羅の時等あり。またみなつぶさに説かん。その国土方面の処に随いて、所作の事業随順し増長せん。」佉盧虱吒、大衆の前にして、掌を合せて、説きて言わまく、「かくのごとき、日月・年時・大小星宿を安置す。何者をか、名づけて有六時とするや。正月・二月を暄暖時と名づく。三月・四月を種作時と名づく。五月・六月は求降時なり。七月・八月は物欲熟時なり。九月・十月は寒涼の時なり。十有一月、合して十二月は大雪の時なり。これ十二月を分かちて六時とす。また大星宿その数、八あり。いわゆる歳星・熒惑・鎮星・太白・辰星・日・月・荷羅睺星なり。また小星宿、二十八あり。いわゆる昴より胃に至るまでの諸宿これなり。我かくのごとき次第安置を作す。その法を説き已りぬ。汝等、みな須らくまた見、また聞くべし。一切大衆、意においていかん。我が置くところの法、その事これ二十八宿および八大星の所行諸業にあらず。汝が喜楽は、是のために、非のためにせず。宜しくおのおの宣説すべし。」その時に一切天人・仙人・阿修羅・龍および緊那羅等、みなことごとく掌を合せて、ことごとくこの言を作さく、「いま大仙のごときは、天人の間にして最も尊重とす。乃至諸龍および阿修羅、よく勝れたる者なけん。智慧・慈悲、最も第一とす。無量劫において忘れず、一切衆生を憐愍するがゆえに、福法を獲、誓願満ち已りて、功徳海のごとし。よく過去・現在・当来、一切諸事、天人の間を知るに、かくのごときの智慧の者あることなし。かくのごときの法用、日夜・刹那および迦羅時、大小星宿、月半・月満・年満の法用、更に衆生よくこの法を作すことなけん。みなことごとく随喜して安楽ならん。我等、善いかな、大徳、衆生を安穏す。」この時、佉盧虱吒仙人、またこの言を作さく、「この十二月・一年始終、かくのごとき方便す。大小星等、刹那時法、みなすでに説き竟りぬ。127また四天大王を須弥山の四方面所に安置す。おのおの一王を置く。このもろもろの方所にして、おのおの衆生を領す。北方の天王を毘沙門と名づく。これ、その界の内に多く夜叉あり。南方の天王を毘留荼と名づく。ともにこれ、その界の内に多く鳩槃荼あり。西方の天王を毘留博叉と名づく。これ、その界の内に多く諸龍あり。東方の天王を題頭隷吒と名づく。これ、その界の内に乾闥婆多し。四方四維、みなことごとく一切洲渚およびもろもろの城邑を擁護す。また鬼神を置きてこれを守護せしむ。」その時に佉盧虱吒仙人、諸天・龍・夜叉・阿修羅・緊那羅・摩睺羅伽・人非人等、一切大衆において、みな称して、善いかな、歓喜無量なることをなす。この時に天・龍・夜叉・阿修羅等、日夜に佉盧虱吒を供養す。128次にまた後に、無量世を過ぎて、また仙人あらん、伽力伽と名づけん。世に出現して、また更に別してもろもろの星宿、小大月の法、時節要略を説き置かん。その時に諸龍、佉羅氐山聖人の住処にありて、光味仙人を尊重し恭敬せん、それ龍力を尽くしてこれを供養せん、と。已上抄出

129『日蔵経』巻第九「念仏三昧品」の第十に言わく、その時に波旬、この偈を説き已るに、かの衆の中に一の魔女あり、名づけて離暗とす。この魔女は、むかし過去において、もろもろの徳本を植えたりき。この説を作して言わまく、「沙門瞿曇は名づけて福徳と称す。もし衆生ありて、仏名を聞くことを得て、一心に帰依せん。一切の諸魔、かの衆生において悪を加うることあたわず。いかにいわんや、仏を見たてまつり、まのあたり法を聞かん人、種種に方便し慧解深広ならん。乃至 たとい千万億の一切魔軍、ついに須臾も害をなすことを得ることあたわず。如来いま涅槃道を開きたまえり。女、彼に往きて仏に帰依せんと欲う」と。すなわちその父のためにして、偈を説きて言わまく、乃至

三世の諸仏の法を修学して、

一切苦の衆生を度脱せん。

善く諸法において自在を得、

当来に願わくは、我還りて仏のごとくならん、と。

その時に、離暗この偈を説き已るに、父の王宮の中の五百の魔女・姉妹・眷属、一切みな菩提の心を発せしむ。この時に魔王、その宮の中の五百の諸女、みな仏に帰して菩提心を発さしむるを見るに、大瞋忿・怖畏・憂愁を益す、と。乃至 この時に五百のもろもろの魔女等、また波旬のためにして偈を説きて言わまく、

もし衆生ありて仏に帰すれば、

かの人、千億の魔に畏れず。

いかにいわんや生死の流を度せんと欲う、

無為涅槃の岸に到らん。

もしよく一香華をもって、

三宝仏法僧に持散することありて、

堅固勇猛の心を発さん、

一切の衆魔、壊することあたわじ。乃至

我等過去の無量の悪、

一切また滅して、余あることなけん。

至誠専心に仏に帰したてまつり已らば、

さだめて阿耨菩提の果を得ん、と。

その時に魔王、この偈を聞き已りて、大きに瞋恚・怖畏を倍して、心を煎し、憔悴・憂愁して、独り宮の内に坐す。130この時に光味菩薩摩訶薩、仏の説法を聞きて、一切衆生ことごとく攀縁を離れ、四梵行を得しむ、と。乃至 131浄く洗浴し、鮮潔の衣を着て、菜食長斎して、辛く臭きものを噉することなかるべし。寂静処にして、道場を荘厳して、正念結跏し、あるいは行じあるいは坐して、仏の身相を念じて乱心せしむることなかれ。さらに他縁し、その余の事を念ずることなかれ。あるいは一日夜、あるいは七日夜、余業を作さざれ。至心念仏すれば、乃至仏を見たてまつる。小念は小を見たてまつり、大念は大を見たてまつる。乃至、無量の念は、仏の色身無量無辺を見たてまつらん、と。略抄

132『日蔵経』巻第十「護塔品」第十三に言わく、時に魔波旬、その眷属八十億衆と、前後に囲繞して仏所に往至せしむ。到り已りて、接足して世尊を頂礼したてまつる。かくのごときの偈を説かく、乃至

三世の諸仏の大慈悲、

我が礼を受けたまえ、一切の殃を懴ぜしむ。

法・僧二宝も、また然なり、

至心帰依したてまつるに異あることなし。

願わくは我今日、世の導師を、

供養し恭敬し尊重したてまつるところなり。

諸悪永く尽くして、また生ぜじ、

寿を尽くすまで如来の法に帰依せん、と。

時に魔波旬、この偈を説き已りて、仏に白して言さく、「世尊如来、我およびもろもろの衆生において、平等無二の心にして、常に歓喜し、慈悲含忍せん」と。仏の言わく、「かくのごとし。」時に魔波旬、大歓喜を生じて清浄心を発す。重ねて仏前にして接足頂礼し、右に遶ること三帀して、恭敬合掌して、却きて一面に住して、世尊を瞻仰したてまつるに、心に厭足なし、と。已上抄出

133『大方等大集月蔵経』巻第五「諸悪鬼神得敬信品」第八の上に言わく、もろもろの仁者、かの邪見を遠離する因縁において、十種の功徳を獲ん。何等をか十とする。一つには、心性柔善にして伴侶賢良ならん。二つには、業報乃至奪命あることを信じて、もろもろの悪を起こさず。三つには、三宝を帰敬して天神を信ぜず。四つには、正見を得て、歳次日月の吉凶を択ばず。五つには、常に人天に生まれてもろもろの悪道を離る。六つには、賢善の心明らかなることを得、人、讃誉せしむ。七つには、世俗を棄てて常に聖道を求めん。八つには、断常見を離れて因縁の法を信ず。九つには、常に正信・正行・正発心の人と共に、相会まり遇わん。十には、善道に生まるることを得しむ。この邪見を遠離する善根をもって、阿耨多羅三藐三菩提に回向せん。この人、速やかに六波羅蜜を満ぜん、善浄仏土にして正覚を成らん。菩提を得已りて、かの仏土にして、功徳・智慧・一切善根、衆生を荘厳せん。その国に来生して天神を信ぜず、悪道の畏を離れて、彼にして命終して、還りて善道に生ぜん、と。略抄

134『月蔵経』巻第六「諸悪鬼神得敬信品」の第八の下に言わく、

仏の出世、はなはだ難し。

法僧もまた難し。

衆生の浄信難し。

諸難を離るること、また難し。

衆生を哀愍すること難し。

知足、第一に難し。

正法を聞くことを得ること難し。

よく修すること、第一に難し。

難を知ることを得て、平等なれば、

世において常に楽を受く。

この十平等処は、

智者常に速やかに知らん、と。乃至

その時に世尊、かのもろもろの悪鬼神衆の中にして法を説きたまう時に、かのもろもろの悪鬼神衆の中にして、かの悪鬼神は、むかし仏法において決定の信を作せりしかども、彼、後の時において、悪知識に近づきて心に他の過を見る。この因縁をもって、悪鬼神に生まる、と。略出

135『大方等大集経』巻第六「月蔵分」の中に「諸天王護持品」第九に言わく、その時に世尊、世間を示すがゆえに、娑婆世界の主・大梵天王に問うて言わまく、「この四天下に、これ誰かよく護持養育を作す」と。時に娑婆世界の主・大梵天王、かくのごときの言を作さく、大徳婆伽婆、兜率陀天王、無量百千の兜率陀天子と共に北欝単越を護持し養育せしむ。他化自在天王、無量百千の他化自在天子と共に東弗婆提を護持し養育せしむ。化楽天王、無量百千の化楽天子と共に南閻浮提を護持し養育せしむ。須夜魔天王、無量百千の須夜魔天子と共に西瞿陀尼を護持し養育せしむ。

136大徳婆伽婆、毘沙門天王、無量百千の諸夜叉衆と共に、北欝単越を護持し養育せしむ。提頭頼吒天王、無量百千の乾闥婆衆と共に、東弗婆提を護持し養育せしむ。毘楼勒天王、無量百千の鳩槃荼衆と共に、南閻浮提を護持し養育せしむ。毘楼博叉天王、無量百千の龍衆と共に、西瞿陀尼を護持し養育せしむ。

137大徳婆伽婆、天仙七宿・三曜・三天童女、北欝単越を護持し養育せしむ。かの天仙七宿は虚・危・室・壁・奎・婁・胃なり。三曜は鎮星・歳星・熒惑星なり。三天童女は鳩槃・弥那・迷沙なり。大徳婆伽婆、かの天仙七宿の中に虚・危・室の三宿は、これ鎮星の土境なり。鳩槃はこれ辰なり。壁・奎の二宿は、これ歳星の土境なり。弥那はこれ辰なり。婁・胃の二宿は、これ熒惑の土境なり。迷沙はこれ辰なり。大徳婆伽婆、かくのごとき天仙七宿・三曜・三天童女、北欝単越を護持し養育せしむ。大徳婆伽婆、天仙七宿・三曜・三天童女、東弗婆提を護持し養育せしむ。かの天仙七宿は昴・畢・觜・参・井・鬼・柳なり。三曜は太白星・歳星・月なり。三天童女は毘利沙・弥偸那・羯迦吒迦なり。大徳婆伽婆、かの天仙七宿の中に昴・畢の二宿はこれ太白の土境なり。毘利沙はこれ辰なり。觜・参・井の三宿はこれ歳星の土境なり。弥偸那はこれ辰なり。鬼・柳の二宿はこれ月の土境なり。羯迦吒迦はこれ辰なり。大徳婆伽婆、かくのごとき天仙七宿・三曜・三天童女、東弗婆提を護持し養育せしむ。大徳婆伽婆、天仙七宿・三曜・三天童女、南閻浮提を護持し養育せしむ。かの天仙七宿は星・張・翼・軫・角・亢・氐なり。三曜は日・辰星・太白星なり。三天童女は訶・迦若・兜羅なり。大徳婆伽婆、かの天仙七宿の中に、星・張・翼はこれ日の土境なり。訶はこれ辰なり。軫・角の二宿はこれ辰星の土境なり。迦若はこれ辰なり。亢・氐の二宿はこれ太白の土境なり。兜羅はこれ辰なり。大徳婆伽婆、かくのごとき天仙七宿・三曜・三天童女、南閻浮提を護持し養育せしむ。大徳婆伽婆、かの天仙七宿・三曜・三天童女、西瞿陀尼を護持し養育せしむ。かの天仙七宿は房・心・尾・箕・斗・牛・女なり。三曜は熒惑星・歳星・鎮星なり。三天童女は毘離支迦・檀㝹婆・摩伽羅なり。大徳婆伽婆、かの天仙七宿の中に房・心の二宿はこれ熒惑の土境なり。毘利支迦はこれ辰なり。尾・箕・斗の三宿はこれ歳星の土境なり。檀㝹婆はこれ辰なり。牛・女の二宿はこれ鎮星の土境なり。摩伽羅はこれ辰なり。大徳婆伽婆、かくのごとき天仙七宿・三曜・三天童女、西瞿陀尼を護持し養育せしむ。

138大徳婆伽婆、この四天下に南閻浮提は最も殊勝なりとす。何をもってのゆえに。閻浮提の人は勇健聡慧にして、梵行、仏に相応す。婆伽婆、中において出世したまう。このゆえに四大天王、ここに倍増してこの閻浮提を護持し養育せしむ。十六の大国あり。いわく、鴦伽摩伽陀国・傍伽摩伽陀国・阿槃多国・支提国なり。この四つの大国は、毘沙門天王、夜叉衆と囲繞して護持し養育せしむ。迦尸国・都薩羅国・婆蹉国・摩羅国・この四つの大国は、提頭頼吒天王、乾闥婆衆と囲繞して護持し養育せしむ。鳩羅婆国・毘時国・槃遮羅国・疎那国、この四つの大国は、毘楼勒叉天王、鳩槃荼衆と囲繞して護持し養育せしむ。阿湿婆国・蘇摩国・蘇羅吒国・甘満闍国、この四つの大国は、毘楼博叉天王、もろもろの龍衆と囲繞して護持し養育せしむ。

139大徳婆伽婆、過去の天仙この四天下を護持し養育せしがゆえに、また皆かくのごとき分布安置せしむ。後において、その国土・城邑村落・塔寺・園林・樹下・塚間・山谷・曠野・河泉・陂泊、乃至、海中宝洲・天祠に随いて、かの卵生・胎生・湿生・化生において、もろもろの龍・夜叉・羅刹・餓鬼・毘舎遮・富単那・迦吒富単那等、かの中に生じて、かの処に還住して、繫属するところなし。他の教を受けず。このゆえは願わくは、仏、この閻浮提の一切国土において、かの諸鬼神、分布安置して、護持のためのゆえ、一切もろもろの衆生を護らんがためのゆえに、我等、この説において随喜せんと欲う、と。

140仏の言わく、かくのごとき、大梵、汝が所説のごとし、と。その時に世尊、重ねてこの義を明かさんと欲しめして、偈を説きて言わく、

世間に示現するがゆえに、

導師、梵王に問わまく、

この四天下において、

誰か護持し養育せん、と。

かくのごとき天師梵、

諸天王を首として、

兜率・他化天・化楽・須夜摩、

よく、かくのごとき四天下を

護持し養育せしむ。

四王および眷属、

またよく護持せしむ。

二十八宿等、

および十二辰、

十二天童女、

四天下を護持せしむ。

その所生の処に随いて、

龍・鬼・羅刹等、

他の教を受けずは、

彼において還って護を作さしむ。

天神等、差別して、

願じて、仏、分布せしめたまえり。

衆生を憐愍せんがゆえに、

正法の燈を熾然ならしむ。

141その時に仏、月蔵菩薩摩訶薩に告げて言わく、清浄士を了知するに、この賢劫の初め人寿四万歳の時、鳩留孫仏、世に出興したまいき。かの仏、無量阿僧祇億那由他百千の衆生のために、生死を回して正法輪を輪転せしむ。追うて悪道に回して、善道および解脱の果を安置せしむ。かの仏、この四大天下をもって、娑婆世界の主大梵天王・他化自在天王・化楽天王・兜率陀天王・須夜摩天王等に付嘱せしむ。護持のゆえに、養育のゆえに、衆生を憐愍のゆえに、三宝の種を断絶せざらしめんがゆえに、熾然ならんがゆえに、地の精気・衆生の精気・正法の精気、久しく住せしめ増長せんがゆえに、もろもろの衆生をして三悪道を休息せしめんがゆえに、三善道に趣向せんがゆえに、四天下をもって大梵および諸天王に付嘱せしむ。かくのごとき漸次に劫尽き、諸天人尽き、一切善業・白法尽滅して、大悪・もろもろの煩悩溺を増長せん。人寿三万歳の時、拘那含牟尼仏、世に出興したまわん。かの仏、この四大天下をもって、娑婆世界の主大梵天王・他化自在天王・乃至四大天王およびもろもろの眷属に付嘱したまう。護持養育のゆえに、乃至、一切衆生をして三悪道を休息して、三善道に趣向せしめんがゆえに、この四天下をもって、大梵および諸天王に付嘱したまう。かくのごとき次第に劫尽き、諸天人尽き、白法また尽きて、大悪もろもろの煩悩溺を増長せん。人寿二万歳の時、迦葉如来、世に出興したまう。かの仏、この四大天下をもって、娑婆世界の主大梵天王・他化自在天王・化楽天王・兜率陀天王・須夜摩天王・憍尸迦帝釈・四天王等、およびもろもろの眷属に付嘱したまえり。護持養育のゆえに、乃至一切衆生をして三悪道を休息せしめ、三善道に趣向せしめんがゆえに、かの迦葉仏、この四天下をもって、大梵・四天王等に付嘱し、および諸天仙衆・七曜・十二天童女・二十八宿等に付したまえり。護持のゆえに、養育のゆえに。清浄士を了知するに、かくのごとき次第に今、劫濁・煩悩濁・衆生濁・大悪煩悩濁・闘諍悪世の時、人寿百歳に至るまで、一切の白法尽き、一切諸悪闇翳ならん。世間は、たとえば海水の一味にして大鹹なるがごとし。大煩悩の味、世に遍満せん。集会の悪党、手に髑髏を執り、血をその掌に塗らん、共にあい殺害せん。かくのごときの悪の衆生の中に、我いま菩提樹下に出世して、初めて正覚を成れり。提謂・波利・もろもろの商人の食を受けて、彼等がためのゆえに、この閻浮提をもって天・龍・乾闥婆・鳩槃荼・夜叉等に分布せしむ。護持養育のゆえに。ここをもって大集十方所有の仏土・一切無余の菩薩摩訶薩等、ことごとくここに来集せん。乃至この娑婆仏土において、その処の百億の日月、百億の四天下、百億の四大海、百億の鉄囲山・大鉄囲山、百億の須弥山、百億の四阿修羅城、百億の四大天王、百億の三十三天、乃至百億の非想非非想処、かくのごとき数を略せり。娑婆の仏土、我この処にして仏事を作す。乃至、娑婆仏土の所有の諸梵天王およびもろもろの眷属、魔天王・他化自在天王・化楽天王・兜率陀天王・須夜摩天王・帝釈天王・四大天王・阿修羅王・龍王・夜叉王・羅刹王・乾闥婆王・緊那羅王・迦楼羅王・摩睺羅伽王・鳩槃荼王・餓鬼王・毘舎遮王・富単那王・迦吒富単那王等において、ことごとく将に眷属としてここに大集せり。法を聞かんがためのゆえに。乃至、ここに娑婆仏土の所有のもろもろの菩薩摩訶薩等およびもろもろの声聞、一切余なく、ことごとくここに来集せり。聞法のためのゆえに。我いま、この所集の大衆のために甚深の仏法を顕示せしむ。また世間を護らんがためのゆえに、この閻浮提所集の鬼神をもって分布安置す。護持養育すべし、と。

142その時に世尊、また娑婆世界の主、大梵天王に問うて言わく、「過去の諸仏、この四大天下をもって、かつて誰に付嘱して護持養育を作さしめたまうぞ」と。時に娑婆世界の主大梵天王言さく、「過去の諸仏、この四天下をもって、かつて我および憍尸迦に付嘱したまえりき。護持を作さしめて、我、失ありやいなや。己が名および帝釈の名を彰す。ただ諸余の天王および宿・曜・辰を称せしむ、護持養育すべし」と。その時に娑婆世界の主大梵天王および憍尸迦帝釈、仏足を頂礼してこの言を作さく、「大徳婆伽婆、大徳修伽陀、我いま過を謝すべし。我小児のごとくして、愚痴無智にして、如来の前にして、自ら称名せざらんや。大徳婆伽婆、唯願わくは容恕したまえ。大徳修伽陀、唯願わくは容恕したまえ。諸来の大衆、また願わくは容恕したまえ。我、境界において言説教令す。自在の処を得て護持養育すべし。乃至、もろもろの衆生をして善道に趣かしめんがゆえに、我等むかし鳩留孫仏のみもとにして、すでに教勅を受けたまわりて、乃至、三宝の種すでに熾然ならしむ。拘那含牟尼仏・迦葉仏の所にして、我教勅を受けたまわりしこと、またかくのごとし。三宝種においてすでに勤にして熾然ならしむ。地の精気、衆生の精気、正法の味、醍醐の精気、久しく住し増長せしむるがゆえに、また我がごときも今、世尊の所にして、己が境界を頂受し教勅して、言説教令す。自在の処を得て、一切闘諍飢饉を休息せしめ、乃至、三宝の種断絶せざらしむるがゆえに、三種の精気久住して増長せしむるがゆえに、悪行の衆生を遮障して、行法の衆生を護養するがゆえに、衆生をして三悪道を休息せしめ、三善道に趣向するがゆえに、仏法をして久しく住せんことを得しめんがためのゆえに、勤に護持を作す」と。

143仏の言わく、「善いかな、善いかな、妙丈夫、汝かくのごとくなるべし」と。その時に仏、百億の大梵天王に告げて言わく、「所有の法を行じ法に住し法に順じて悪を厭捨せん者は、今ことごとく汝等が手の中に付嘱す。汝等賢首、百億の四天下おのおのの境界において、言説教令す。自在の処を得て、所有の衆生、弊悪・麁獷・悩害、他において慈愍あることなし。後世の畏を観ぜずして、刹利心および婆羅門・毘舎・首陀の心を触悩せん、乃至畜生心を触悩せん。かくのごとき殺生を作す因縁、乃至邪見を作す因縁、その所作に随いて非時の風雨あらん。乃至、地の精気・衆生の精気・正法の精気、損減の因縁を作さしめば、汝、遮止して善法に住せしむべし。もし衆生ありて善を得んと欲わん者、法を得んと欲わん者、生死の彼岸に度せんと欲わん者、檀波羅蜜を修行することあらんところの者、乃至、般若波羅蜜を修行せん者、所有の法を行じ法に住せん衆生、および行法のために事を営まん者、かのもろもろの衆生、汝等当に護持養育すべし。もし衆生ありて、受持し読誦して、他のために演説し種種に経論を解説せん。汝等、当にかのもろもろの衆生と、念持方便して堅固力を得べし。所聞に入りて忘れず、諸法の相を智信して、生死を離れしめ、八聖道を修して、三昧の根相応せん。もし衆生ありて、汝が境界において法に住せん、奢摩他・毘婆舎那、次第方便して、もろもろの三昧と相応して、勤に三種菩提を修習せんと求めん者、汝等、当に遮護し摂受して、勤に捨施を作して、乏少せしむることなかるべし。もし衆生ありて、その飲食・衣服・臥具を施し、病患の因縁に湯薬を施せん者、汝等、当にかの施主をして五利増長せしむべし。何等をか五とする。一つには寿増長せん、二つには財増長せん、三つには楽増長せん、四つには善行増長せん、五つには慧増長するなり。汝等、長夜に利益安楽を得ん。この因縁をもって、汝等、よく六波羅蜜を満てん。久しからずして一切種智を成ずることを得ん。

144時に娑婆世界の主大梵天王を首として、百億のもろもろの梵天王と共に、ことごとくこの言を作さく、かくのごとし、かくのごとし。大徳婆伽婆、我等おのおのに己が境界、弊悪・麁獷・悩害において、他において慈愍の心なく、後世の畏れを観ぜざらん。乃至、我当に遮障し、かの施主と五事を増長すべし、と。仏の言わく、善いかな、善いかな、汝かくのごとくなるべし。その時にまた、一切菩薩摩訶薩、一切諸大声聞、一切天・龍、乃至一切非人等ありて、讃めて言さく、善いかな、善いかな、大雄猛士、汝等、かくのごとき法、久しく住することを得、もろもろの衆生をして悪道を離るること得、速やかに善道に趣かしめん、と。

145その時に世尊、重ねてこの義を明らめんと欲しめして、偈を説きて言わく、

我月蔵に告げて言わく、

この賢劫の初めに入りて、

鳩留仏、梵等に、

四天下を付嘱したまう。

諸悪を遮障するがゆえに、

正法の眼、熾然ならしむ。

もろもろの悪事を捨離し、

行法の者を護持し、

三宝の種を断たず、

三精気を増長し、

もろもろの悪趣を休息し、

もろもろの善道に向かえしむ。

拘那含牟尼、

また大梵王・

他化・化楽天・

乃至四天王に嘱したまう。

次後に迦葉仏、

また梵天王・

化楽等四天・

帝釈・護世王・

過去のもろもろの天仙に嘱したまう。

もろもろの世間のためのゆえに、

もろもろの曜宿を安置して、

護持し養育せしめたまえり。

濁悪世に至りて、

白法の尽滅せん時、

我、独覚無上にして、

人民を安置して護らん。

今大衆の前にして、

しばしば我を悩乱せん、

当に説法を捨つべし。

我を置ちて護持せしめよ。

十方のもろもろの菩薩、

一切ことごとく来集せん。

天王もまた、

この娑婆仏国土に来らしめん。

我、大梵王に問わく、

誰か昔護持せし者、と。

帝釈・大梵天、

余の天王を指示す。

時に、釈・梵王、

過を導師に謝して言わまく、

我等、王の処を所にして、

一切の悪を遮障し、

三宝の種を熾然ならしめ、

三精気を増長せん。

諸悪の朋を遮障して、

善の朋党を護持せしむ、と。已上抄出

146『月蔵経』巻第七「諸魔得敬信品」第十に言わく、その時にまた百億の諸魔あり。ともに同時に座よりして起ちて、合掌して仏に向かいたてまつりて、仏足を頂礼して、仏に白して言さく、「世尊、我等また当に大勇猛を発して、仏の正法を護持し養育して、三宝の種を熾然ならしめて、久しく世間に住せしむ、いま地の精気、衆生の精気、法の精気、みなことごとく増長せしむべし。もし世尊声聞弟子ありて、法に住し法に順じて、三業相応して修行せば、我等みなことごとく護持し養育して、一切所須乏しきところなからしめん」と。乃至

この娑婆界にして、

初め賢劫に入りし時、

楼孫如来、

すでに四天を

帝釈・梵天王に嘱せしめて、

護持し養育せしむ。

三宝の種を熾燃ならしめ、

三精気を増長ならしめたまいき。

那含牟尼、

また四天下を

梵・釈・諸天王に嘱して、

護持し養育せしむ。

迦葉もまたかくのごとし、

すでに四天下を

梵・釈・護世王に嘱して、

行法の者を護持せしめき。

過去の諸仙衆、

および諸天仙、

星辰もろもろの宿曜、

また嘱し分布せしめき。

我五濁の世に出でて、

諸魔の怨を降伏して、

大集会を作して、

仏の正法を顕現せしむ。乃至

一切の諸天衆、

ことごとく共に仏に白して言さく、

我等、王の処を所にして、

みな正法を護持し、

三宝の種を熾燃ならしめ、

三精気を増長せしめんと。

もろもろの病疫、飢饉、

および闘諍を息めしむ、と。乃至略出

147「提頭頼吒天王護持品」に云わく、仏の言わく、「日天子、月天子、汝我が法において護持し養育せば、汝長寿にしてもろもろの衰患なからしめん」と。その時にまた百億の提頭頼吒天王・百億の毘楼勒叉天王・百億の毘楼博叉天王・百億の毘沙門天王あり。彼等同時に、および眷属と、座より起ちて衣服を整理し、合掌し敬礼して、かくのごときの言を作さく、「大徳婆伽婆、我等おのおの己が天下にして、ねんごろに仏法を護持し養育を作さん。三宝の種、熾然として久しく住し、三種の精気みなことごとく増長せしめん」と。乃至

「我いままた上首毘沙門天王と同心に、この閻浮提と北方の諸仏の法を護持す」と。已上略抄

148『月蔵経』巻第八「忍辱品」第十六に言わく、仏の言わく、かくのごとし、かくのごとし、汝が言うところのごとし。もし己が苦を厭い楽を求むるを愛することあらん、当に諸仏の正法を護持すべし。これより当に無量の福報を得べし。もし衆生ありて、我がために出家し鬚髪を剃除して袈裟を被服せん。たとい戒を持たざらん、彼等ことごとくすでに涅槃の印のために印せらるるなり。もしまた出家して戒を持たざらん者、非法をもってして悩乱を作し、罵辱し毀呰せん、手をもって刀杖打縛し斫截することあらん。もし衣鉢を奪い、および種種の資生の具を奪わん者、この人、すなわち三世の諸仏の真実の報身を壊するなり。すなわち一切天人の眼目を排うなり。この人、諸仏所有の正法三宝種を隠没せんと欲うがためのゆえに、もろもろの天人をして利益を得ざらしむ。地獄に堕せんゆえに、三悪道増長し盈満をなすなり、と。已上

149また言わく、その時にまた一切天・龍、乃至一切迦吒富単那・人非人等ありて、みなことごとく合掌して、かくのごときの言を作さく、「我等、仏一切声聞弟子、乃至もしまた禁戒を持たざれども鬚髪を剃除し袈裟を片に着ん者において、師長の想を作さん。護持養育してもろもろの所須を与えて乏少なからしめん。もし余の天・龍、乃至迦吒富単那等、それ悩乱を作し、乃至悪心をして眼をもってこれを視ば、我等ことごとく共に、かの天・龍・富単那等、所有の諸相欠減し醜陋ならしめん。彼をしてまた、彼等と共に住し共に食を与うることを得ざらしめん。また同処にして、戯笑を得じ。かくのごとく擯罰せん」と。已上

150(華厳経)また言わく、占相を離れて、正見を修習せしめ、決定して深く罪福の因縁を信ずべし。抄出

151『首楞厳経』に言わく、彼等の諸魔、かの諸鬼神、彼等の群邪、また徒衆ありて、おのおの自ら謂わん。

無上道を成りて、我が滅度の後、末法の中に、この魔民多からん、この鬼神多からん、この妖邪多からん。世間に熾盛にして、善知識と為って、もろもろの衆生をして愛見の坑に落とさしめん。菩提の路を失し、眩惑無識にして、恐らくは心を失せしめん。所過の処に、その家耗散して、愛見の魔と成りて、如来の種を失せん、と。已上

152『潅頂経』に言わく、三十六部の神王、万億恒沙の鬼神を眷属として、相を陰し番に代わりて、三帰を受くる者を護る、と。已上

153『地蔵十輪経』に言わく、つぶさに正しく帰依して、一切妄執吉凶を遠離せんものは、終に邪神外道に帰依せざれ、と。

154また言わく、あるいは種種に、もしは少もしは多、吉凶の相を執して、鬼神を祭りて、乃至 極重大罪悪業を生じ、無間罪に近づく。かくのごときの人、もし未だかくのごときの大罪悪業を懺悔し除滅せずは、出家しておよび具戒を受けしめざらんも、もしは出家してあるいは具戒を受けしめんも、すなわち罪を得ん、と。已上

155『集一切福徳三昧経』の中に言わく、余乗に向かわざれ、余天を礼せざれ、と。已上

『本願薬師経』に言わく、もし浄信の善男子・善女人等ありて、乃至尽形までに、余天に事えざれ、と。

また言わく、また世間の邪魔・外道・妖孽の師の妄説を信じて、禍福すなわち生ぜん。恐らくは、ややもすれば心自ずから正しからず、卜問して禍を覓め、種種の衆生を殺せん。神明に解奏し、もろもろの魍魎を呼ぼうて、福祐を請乞し、延年を冀わんと欲るに、終に得ることあたわず。愚痴迷惑して邪を信じ、倒見してついに横死せしめ、地獄に入りて出期あることなけん。乃至 八つには、横に毒薬・厭祷・呪咀し、起屍鬼等のために中害せらる、と。已上抄出

156『菩薩戒経』に言わく、出家の人の法は、国王に向かいて礼拝せず、父母に向かいて礼拝せず、六親に務えず、鬼神を礼せず、と。已上

157『仏本行集経』第四十二巻「優婆斯那品」に言わく、その時にかの三迦葉兄弟に一の外甥、螺髻梵志あり。その梵志を優婆斯那と名づく。乃至 恒に二百五十の螺髻梵志弟子と共に仙道を修学しき。彼、その舅迦葉三人を聞くに、もろもろの弟子、かの大沙門の辺に往詣して、阿舅、鬚髪を剃除し袈裟衣を着ると。見已りて、舅に向かいて偈を説きて言わく、「舅等、虚しく火を祀ること百年、また空しくかの苦行を修しき。今日同じくこの法を捨つること、なお蛇の故き皮を脱ぐがごとくするをや。」その時にかの舅迦葉三人、同じく共に偈をもって、その外甥、優婆斯那に報じて、かくのごときの言を作さく、「我等、昔空しく火神を祀りて、また徒に苦行を修しき。我等、今日この法を捨つること、実に蛇の故き皮を脱ぐがごとくす」と。抄出

158『起信論』に曰わく、あるいは衆生ありて、善根力なければ、すなわち諸魔・外道・鬼神のために誑惑せらる。もしは座中にして形を現じて恐怖せしむ、あるいは端正の男女等の相を現ず。当に唯心の境界を念ずべし、すなわち滅して終に悩みをなさず。あるいは天像・菩薩像を現じ、また如来像の相好具足せるを作して、もしは陀羅尼を説き、もしは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を説き、あるいは平等、空・無相・無願、無怨・無親、無因・無果、畢竟空寂、これ真の涅槃なりと説かん。あるいは人をして宿命過去の事を知らしめ、また未来の事を知る。他心智を得、弁才無碍ならしむ。よく衆生をして世間の名利の事に貪着せしむ。また人をして、しばしば瞋り、しばしば喜ばしめ、性無常の准ならしむ。あるいは多く慈愛し、多く睡り、多く宿る、多く病す、その心懈怠なり。あるいは、にわかに精進を起こして、後にはすなわち休廃す。不信を生じて、疑い多く、慮多し。あるいは本の勝行を捨てて、更に雑業を修せしめ、もしは世事に着せしめ、種種に牽纏せらる。またよく人をしてもろもろの三昧少分相似せるを得しむ。みなこれ外道の所得なり、真の三昧にあらず。あるいはまた、人をしてもしは一日、もしは二日、もしは三日、乃至七日、定中に住して、自然の香美飲食を得しむ。身心適悦して、飢えず渇かず、人をして愛着せしむ。あるいはまた、人をして食に分斉なからしむ。たちまちに多く、たちまちに少なくして、顔色変異す。この義をもってのゆえに、行者常に、智慧をして観察して、この心をして邪網に堕せしむることなかるべし。当に勤めて正念にして、取らず着せずして、すなわちよくこのもろもろの業障を遠離すべし。知るべし、外道の所有の三昧は、みな見愛我慢の心を離れず、世間の名利恭敬に貪着するがゆえなり、と。已上

159『弁正論』法琳の撰 に曰わく、十喩九箴篇、答す、李道士、十異九迷

160外の一異に曰わく、太子老君は、神を玄妙玉女に託して、左腋を割きて生まれたり。釈迦牟尼は、胎を摩耶夫人に寄せて、右脇を開きて出でたり、と。乃至

内の一喩に曰わく、老君は、常に逆い、牧女に託きて左より出ず。世尊は、化に随いて、聖母に因りて右より出でたまう、と。

開士の曰わく、慮景裕・戴詵・韋処玄等が『解五千文』、および梁の元帝・周弘政等が『考義類』を案ずるに云わく、「太上に四つあり。いわく、三皇および堯舜これなり。」言うこころは、上古にこの大徳の君あり、万民の上に臨めり。かるがゆえに太上と云うなり。郭荘云わく、「時にこれを賢とするところの者を君とす。材、世に称せられざる者を臣とす。」老子、帝にあらず、皇にあらず、四種の限にあらず、何の典拠ありてか、たやすく太上と称するや。道家が『玄妙』および『中胎』・『朱韜』・『王礼』等の経、ならびに『出塞記』を検うるに、云わく、「老はこれ李母が生めるところ」、「玄妙玉女あり」と云わず。すでに正説にあらず。もっとも仮の謬談なり。『仙人玉録』に云わく、仙人は妻なし、玉女は夫なし。女形を受けたりといえども、ついに産せず。もしこの瑞あるは、誠に嘉とすべし、と曰う。いずれぞせん、『史記』にも文なし、『周書』に載せず。虚を求めて実を責めば、矯盲の者の言を信ずるのみと。『礼』に云わく、「官を退きて位なきは左遷す。」『論語』に云わく、「左袵は礼にあらざるなり。」もし左をもって右に勝るとせんは、道士行道するに、何ぞ左に旋らずして右に還りて転るや。国の詔書にみな云わく、「右のごとし。」並びに、天の常に順うなり。乃至

161外の四異に曰わく、老君は文王の日、隆周の宗師たり。釈迦は荘王の時、罽賓の教主たり。

内の四喩に曰わく、伯楊は、職、小臣に処り、忝く蔵吏に充れり。文王の日にあらず。また隆周の師にあらず。牟尼は、位、太子に居して、身、特尊を証したまえり。昭王の盛年に当れり。閻浮の教主たり、と。乃至

162外の六異に曰わく、老君は世に降して、始め周文の日より、孔丘の時に訖れり。釈迦は肇めて浄飯の家に下生して、我が荘王の世に当れり。

内の六喩に曰わく、迦葉は、桓王丁卯の歳に生まれて、景王壬午の年に終う。孔丘の時に訖るといえども、姫昌の世に出でず。調御は、昭王甲寅の年に誕じて、穆王壬申の歳に終う。これ浄飯の胤たり。本荘王の前に出でたまえり。

開士曰わく、孔子、周に至りて老聃を見て、礼を問う。ここに『史記』に具に顕る。文王の師たること、すなわち典証なし。周の末に出でたり。その事、周の初めに尋ぬべし。史文に載せず。乃至

163外の七異に曰わく、老君、初めて周の代に生まれて、晩に流沙に適く。始終を測らず、方所を知ることなし。釈迦は西国に生まれて、かの提河に終わりぬ。弟子、胸を搥ち、群胡大きに叫ぶ。

内の七喩に曰わく、老子は頼郷に生まれて、槐里に葬らる。秦佚の弔に詳らかにす。責、遁天の形にあり。瞿曇はかの王宮に出でて、この鵠樹に隠れたまう。漢明の世に伝わりて、祕かに蘭台の書にまします。

開士曰わく、『荘子』内篇に云わく、「老聃死して、秦佚弔う。ここに三たび号んで出ず。弟子、怪しんで問う、夫子の徒にあらざるか。秦佚曰わく、向に吾入りて少き者を見るに、これを哭す、その父を哭するがごとく、老者これを哭す、その子を哭するがごとし。古はこれを遁天の形と謂う。始めはおもえらく、その人なりと。しかるに今非なり。」遁は隠なり、天は免縛なり、形は身なり。言うこころは、始め老子をもって免縛形の仙とす、今すなわち非なり。ああ、その諂れる典、人の情を取る。故に死を免れず。我が友にあらず、と。乃至

164内の十喩、答す、外の十異

外は生より左右異なる一。内は生より勝劣あり。内に喩して曰わく、左袵はすなわち戎狄の尊むところ、右命は中華の尚むところとす。かるがゆえに『春秋』に云わく、「冢郷は命なし、介郷はこれあり、また左ならずや。」『史記』に云わく、「藺相如は、功大きにして、位、廉頗が右にあり、これを恥ず。」また云わく、「張儀相、秦を右にして魏を左にす。犀首相、韓を右にして魏を左にす。」蓋に云わく、便ならずや。『礼』に云わく、「左道乱群をば、これを殺す。」あに右は優りて左は劣れるにあらずや。皇甫謐が『高士伝』に云わく、「老子は楚の相人、過水の陰に家す。事を常従子に押し。常子疾あるに及びて、李耳往きて疾を問う。」ここに稽康の云わく、「李耳、涓子に従いて九仙の術を学ぶ。」太史公らの衆書を検するに、「老子、左腋を剖いて生まる」と云わず。すでに正しく出でたることなし。承信すべからざること明らけし。験らかに知りぬ。戈を揮い翰を操れば、けだし文武の先、五気・三光は、まことに陰陽の首なり。ここをもって釈門には、右に転ずること、また人用を快しくす。張陵左道にす、信に天の常に逆う。いかんとなれば、釈迦、無縁の慈を超えて、有機の召に応ず、その迹を語るなり。乃至

165それ釈氏は、天上天下に介然として、その尊に居す。三界六道、卓爾としてその妙を推す。乃至

166外論に曰わく、老君、範と作す。ただ孝、ただ忠、世を救い人を度す、慈を極め愛を極む。ここをもって声教永く伝え、百王改まらず、玄風長く被らしめて、万古差うことなし。このゆえに国を治め家を治むるに、常然たり、楷式たり。釈教は、義を棄て親を棄て、仁ならず孝ならず。闍王、父を殺せる、翻じてなしと説く。調達、兄を射て、無間に罪を得。これをもって凡を導く、更に悪を長すことをなす。これをもって世に範とする、何ぞよく善を生ぜんや。これ逆順の異、十なり。

内喩に曰わく、義はすなわち道徳の卑しうするところ、礼は忠信の薄きより生ず。瑣仁、匹婦を譏り、大孝は不匱を存す。しこうして、凶に対いて歌い笑う、中夏の容に乖う。喪に臨みて盆を扣く、華俗の訓にあらず。原壌、母死して騎棺して譏らず。子桑死するとき子貢弔う。四子あい視て歌う。しかるに孔子、時に助けて祭りて笑う。荘子、妻死す、盆を扣きて歌うなり。かるがゆえにこれを教うるに孝をもってす、天下の人父たるを敬する所以なり。これを教うるに忠をもってす、天下の人君たるを敬する所以なり。化、万国に周し、すなわち明辟の至れるなり。仁、四海に形る、実に聖王の巨孝なり。仏経に言わく、「識体、六趣に輪回す、父母にあらざるなし。生死、三界に変易す、たれか怨親を弁えん。」また言わく、「無明、慧眼を覆う、生死の中に来往す。往来して所作す、更にたがいに父子たり。怨親しばしば知識たり、知識しばしば怨親たり。」ここをもって沙門、俗を捨てて真に趣く、庶類を天属に均しうす。栄を遺てて道に即く、含気を己親に等しくす。行、普く正しきの心。等しく普き親の志なり。また道は清虚を尚ぶ、それは恩愛を重くす。法は平等を貴ぶ、それ怨親を簡わんや。あに惑にあらずや。勢競、親を遺る、文史、事を明かす。斉桓・楚穆、これその流なり。もって聖を訾らんと欲う、あに謬れるにあらずや。それ道の劣、十なり。乃至

167二皇、化を統べて 『須弥四域経』に云わく、応声菩薩を伏義とす、吉祥菩薩を女媧とするなり、淳風の初めに居り、三聖、言を立てて 『空寂所問経』に云わく、迦葉を老子とす、儒童を孔子とす、光浄を顔回とするなり、已澆の末を興す。玄虚沖一の旨、黄・老その談を盛りにす。詩書礼楽の文、周・孔その教を隆くす。謙を明らかにし、質を守る、すなわち聖に登るにこれ階梯なり。三畏・五常は人天の由漸とす。けだし冥に仏理に符う、正弁極談にあらずや。なお道を瘖聾に訪うに、方を麾いて遠迩を窮むることなかれ。津を兎馬に問う、済るを知りて浅深を測らず。これに因って談ずるに、殷・周の世は釈教の宜しく行するべきところにあらざるなり。なお炎威耀を赫かす、童子、目を正しくして視ることあたわず。迅雷奮い撃つ、懦夫、耳を張りて聴くことあたわず。ここをもって河池涌き浮かぶ、昭王、神を誕ずることを懼る。雲霓色を変じ、穆后、聖を亡わんことを欣ぶ。『周書異記』に云わく、昭王二十四年四月八日、江河泉水ことごとく泛漲せり。穆王五十二年二月十五日、暴風起ちて樹木折れ、天陰り雲黒し、白虹の怪あり。あによく葱河を越えて化を禀け、雪嶺を踰えて誠を効さんや。『浄名』(維摩経)に云わく、「これ盲者の過なり、日月の咎にあらず。」たまたまその鑿竅の弁を窮めんと欲う、恐らくは、吾が子混沌の性を傷む。それ知るところにあらず、その盲、一なり。

168内には像塔を建造す、指る二。漢明より已下、斉・梁、王・公・守牧、清信士・女、および比丘・比丘尼等に訖う。冥に至聖を感じ、国に神光を覩る者、おおよそ二百余人。迹を万山に見、耀を滬涜に浮かべ、清台の下に満月の容を覩、雍門の外に相輪の影を観るがごときに至りては、南平は応を瑞像に獲、文宣は夢を聖牙に感ず。蕭后一たび鋳て剋成し、宗皇四たび摸して就らず。その例、はなはだ衆し、具に陳ぶべからず。あに爾が無目をもって、かの有霊を斥わんや。169しかるに徳として備わらざるものなし、これを謂いて「涅槃」とす。道として通ぜざるものなし、これを名づけて「菩提」とす。智として周からざるものなし、これを称して「仏陀」とす。この漢語をもってかの梵言を訳す。すなわち彼此の仏、昭然として信ずべきなり。何をもってかこれを明かすとならば、それ「仏陀」は漢には「大覚」と言うなり。「菩提」をば漢には「大道」と言うなり。「涅槃」は漢には「無為」と言うなり。しかるに吾子、終日に菩提の地を践んで大道すなわち菩提の異号なることを知らず。形を大覚の境に禀けて、未だ大覚すなわち仏陀の訳名なることを閑わず。かるがゆえに荘周云わく、「また大覚あれば、後にその大夢を知るなり。」郭が『註』に云わく、「覚は聖人なり。言うこころは患、懐にあるはみな夢なり。」『註』に云わく、「夫子、子游と、未だ言うことを忘れて神解することあたわず、かるがゆえに大覚にあらざるなり。」君子の曰わく、「孔丘の談、ここにまた尽きぬ。」涅槃寂照、識として識るべからず、智をして智るべからず。すなわち言語断えて心行滅す、かるがゆえに言を忘るるなり。法身はすなわち三点・四徳の成ずるところ、蕭然として無累なり。かるがゆえに解脱と称す。これその神解として患息するなり。夫子、聖なりといえども、はるかにもって功を仏に推れり。いかんとなれば、劉向が古旧二録を案ずるに云わく、「仏流、中夏を経て一百五十年の後、老子方に五千文を説けり。しかるに周と老と、並びに仏経の所説を見る。言教往往たり、験えつべし。」乃至

170『正法念経』に云わく、人戒を持たざれば、諸天減少し、阿修羅盛なり。善龍力なし、悪龍力あり。悪龍力あれば、すなわち霜雹を降して、非時の暴風疾雨ありて、五穀登らず、疾疫競い起こり、人民飢饉す、たがいに相残害す。もし人、戒を持てば、多く諸天威光を増足す。修羅減少し、悪龍力なし、善龍力あり。善龍力あれば、風雨時に順じ、四気和暢なり。甘雨降りて、稔穀豊かなり。人民安楽にして、兵戈戦息す、疾疫行ぜざるなり。乃至

171君子曰わく、道士大霄が『隠書』、無上が『真書』等に云わく、「無上大道君、治、五十五重無極大羅天の中、玉京の上、七宝の台、金床玉机にあり。仙童・玉女の侍衛するところ、三十二天三界の外に住す。」『神仙五岳図』を案ずるに云わく、「大道天尊は大玄都、玉光州、金真の郡、天保の県、元明の郷、定志の里を治す。災及ばざるところなり。」『霊書経』に云わく、「大羅はこれ五億五万五千五百五十五重天の上天なり。」『五岳図』に云わく、「都は都なり、太上大道は道の中の道、神明君最、静を守りて太玄の都に居り。」『諸天内音』に云わく、「天と諸仙と、楼都の鼓を鳴らす。玉京に朝晏して、もって道君を楽しましむ」と。

172道士の上ぐるところの経の目を案ずるに、みな云わく、「宋人陸修静に依って、一千二百二十八巻を列ねたり。」本雑書諸子の名なし。しかるに道士いま列ぬるに、すなわち二千四十巻あり。その中に多く『漢書』芸文志の目を取りて、みだりに八百八十四巻を註して、道の経論とす。乃至 陶朱を案ずれば、すなわちこれ范蠡なり。親り越の王、勾践にに事えて、君臣ことごとく呉に囚れて、糞を嘗め尿を飲んで、またもって甚だし。また范蠡の子は、斉に戮さる。父すでに変化の術あらば、何ぞもって変化してこれを免るることあたわざらん。『造立天地の記』を案ずるに、称すらく、「老子、幽王の皇后の腹の中に託生す。」すなわちこれ幽王の子なり。また身、柱史たり、またこれ幽王の臣なり。『化胡経』に言わく、「老子、漢にありては東方朔とす。」もし審かに爾らば、知りぬ、幽王犬戎のために殺さる。あに君父を愛して神符を与えて、君父をして死せざらしめざるべけんや。乃至 陸修静が『目録』が指す、すでに正本なし。何ぞ謬の甚だしきをや。しかるに修静、目をなすこと、すでにこれ大偽なり。いま『玄都録』、またこれ偽の中の偽なり。乃至

173また云わく、『大経』(涅槃経)の中に説かく、「道に九十六種あり。ただ仏の一道これ正道なり、その余の九十五種においてはみなこれ外道なり」と。朕、外道を捨ててもって如来に事う。もし公郷ありて、よくこの誓いに入らん者は、おのおの菩薩の心を発すべし。老子・周公・孔子等、これ如来の弟子として化をなすといえども、すでに邪なり。ただこれ世間の善なり、凡をてて聖と成ることあたわず。公郷・百官・侯王・宗室、宜しく偽を反し真に就き、邪を捨て正に入るべし。かるがゆえに経教『成実論』に説いて云わく、「もし外道に事えて心重く、仏法の心軽きはすなわちこれ邪見なり。もし心一等なる、これ無記にして善悪に当たらず。」仏に事えて心強くして、老子に心少なきは、すなわちこれ「清信」なり。「清信」と言うは、清はこれ表裏ともに浄く、垢穢惑累みな尽くす。「信」は、これ正を信じて邪ならざるがゆえに、「清信の仏弟子」と言う。その余、等しくみな邪見なり、清信と称することを得ざるなり。乃至 老子の邪風を捨てて、法の真教に入流せよとなり。已上抄出

174(法事讃)光明寺の迦葉の云わく、上方の諸仏、恒沙のごとし。還りて舌相を舒べたまうことは、娑婆の十悪・五逆、多く疑謗し、邪を信じ、鬼に事え、神魔を餧かしめて、妄に想いて、恩を求めて福あらんと謂えば、災障禍横さまに転いよいよ多し、連年に病の床枕に臥す、聾・盲、脚折れ、手攣き撅る、神明に承事してこの報を得るもののためなり。いかんぞ捨てて弥陀を念ぜざらん、と。已上

175天台(智顗)の『法界次第』に云わく、一つには仏に帰依す。『経』(涅槃経)に云わく、「仏に帰依せん者、終に更ってその余のもろもろの外天神に帰依せざれ」となり。また云わく、「仏に帰依せん者、終に悪趣に堕せず」と云えり。二つには法に帰依す。謂わく、「大聖の所説、もしは教もしは理、帰依し修習せよ」となり。三つには僧に帰依す。謂わく、「心、家を出でたる三乗正行の伴に帰するがゆえに。」『経』(涅槃経)に云わく、「永く、また更って、その余のもろもろの外道に帰依せざるなり」と。已上

176(楽邦文類)慈雲大師(遵式)の云わく、然るに祭祀の法は、天竺には「韋陀」、支那には「祀典」といえり。すでに未だ世を逃れず、真を論ずるは俗を誘うるの権方なり、と。文

177(天台四教儀)高麗の観法師(諦観)の云わく、餓鬼道、梵語には闍黎多、この道また諸趣に遍す。福徳ある者は山林塚廟神と作る。福徳なき者は、不浄処に居し、飲食を得ず、常に鞭打を受く。河を填ぎ海を塞ぎて、苦を受くること無量なり。諂誑の心意なり。下品の五逆・十悪を作りて、この道の身を感ず、と。已上

178(四教儀集解)神智法師(従義)釈して云わく、餓鬼道は、常に飢えたるを「餓」と曰う、「鬼」の言は尸に帰す。『子』の曰わく、「古は人死と名づく、帰人とす。また天神を「鬼」と云う、地神を「祇」と曰うなり。」乃至 形あるいは人に似たり、あるいは獣等のごとし。心正直ならざれば、名づけて「諂誑」とす、と。

179(盂蘭盆経疏新記)大智律師(元照)の云わく、神は謂わく鬼神なり。すべて四趣・天・修・鬼・獄に収む、と。

180(観経扶新論)度律師(戒度)の云わく、魔はすなわち悪道の所収なり、と。

181(摩訶止観)『止観』の魔事境に云わく、二つには、魔の発相を明かすには、管属に通じてみな称して魔とす。細しく枝異を尋ぬれば三種を出でず。一つには慢悵鬼、二つには時媚鬼、三つには魔羅鬼なり。三種の発相、おのおの不同なり、と。

182(往生要集)源信、『止観』に依って云わく、魔は煩悩に依って菩提を妨ぐるなり。鬼は悪病を起こす、命根を奪う。已上

183『論語』に云わく、季路問わく、「鬼神に事えんか」と。子の曰わく、「事うることあたわず。人いずくんぞ能く鬼神に事えんや」と。已上抄出

184竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。185しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし。ここをもって興福寺の学徒、  太上天皇 諱尊成、今上 諱為仁 聖暦・承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。  主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。

186これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。  187皇帝 諱守成 聖代、建暦辛の未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて、入洛して已後、空(源空)、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまいき。同じき二年壬申寅月の下旬第五日午の時、入滅したまう。奇瑞称計すべからず。『別伝』に見えたり。

188しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空(源空)の真筆をもって、これを書かしめたまいき。同じき日、空の真影申し預かりて、図画し奉る。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。また夢の告に依って、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。本師聖人、今年は七旬三の御歳なり。『選択本願念仏集』は、禅定博陸 月輪殿兼実・法名円照 の教命に依って撰集せしむるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見る者諭り易し。誠にこれ、希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万といえども、親と云い疎と云い、この見写を獲るの徒、はなはだもって難し。しかるに既に製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。仍って悲喜の涙を抑えて由来を縁を註す。

189慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。これに因って、真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭う。ただ仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず。もしこの書を見聞せん者、信順を因として疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。

190『安楽集』に云わく、真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。已上

しかれば末代の道俗、仰いで信敬すべきなり。知るべし。

191『華厳経』(入法界品)の偈に云うがごとし。もし菩薩、種種の行を修行するを見て、善・不善の心を起こすことありとも、菩薩みな摂取せん、と。已上

 

顕浄土真実教行証文類六

 

教行信証科文

 

総序

1 他力真宗総1

2 教興の因縁と諸聖の大悲2

3 行信の勝徳3

4 易修に約して勧信4

5 聞法の因縁と疑慮の大過5

6 七祖の師訓と撰集の意楽6

 

教巻

1 真宗大綱1

2 真実教

2.1 正顕

2.1.1 一宗の根本経2

2.1.2 『大経』の大意3

2.1.3 『大経』の宗体4

2.2 引文

2.2.1 微問5

2.2.2 引証

2.2.2.1 経文の一、正顕

2.2.2.1.1 『大無量寿経』の文6

2.2.2.2 経文の二、助顕

2.2.2.2.1 『無量寿如来会』の文[186]7

2.2.2.2.2 『平等覚経』の文[74]8

2.2.2.3 註釈

2.2.2.3.1 憬興『述文賛』の文9

2.3 結嘆10

 

行巻

1 真実行

1.1 大行釈

1.1.1 総標1

1.1.2 正顕

1.1.2.1 大行の体2

1.1.2.2 大行の出拠3

1.2 引文

1.2.1 経文

1.2.1.1 『大無量寿経』五文

1.2.1.1.1 因願文の一、第十七願の文4

1.2.1.1.2 「重誓偈」の文5

1.2.1.1.3 第十七願成就文の諸仏讃嘆の文6

1.2.1.1.4 諸仏称嘆の文の長行7

1.2.1.1.5 諸仏讃勧の文の偈頌8

1.2.1.2 『無量寿如来会』二文

1.2.1.2.1 「重誓偈」の文[194]9

1.2.1.2.2 成就文[204]10

1.2.1.3 『大阿弥陀経』(過度人道経)一文[137]11

1.2.1.4 『平等覚経』四文

1.2.1.4.1 因願文の一、称名信楽願文(一七・一八願合説)[79]12

1.2.1.4.2 因願文の二、聞名果遂の文(二〇願相当)[79]13

1.2.1.4.3 聞経宿縁の説文[82]14

1.2.1.4.4 聞名利益の偈文[100]15

1.2.1.5 『悲華経』諸菩薩本授記品の文16

1.2.1.6 経文結釈17

1.2.2 論文

1.2.2.1 龍樹『十住毘婆沙論』の四品九文

1.2.2.1.1 「入初地品」の文

1.2.2.1.1.1 入初地相の文18

1.2.2.1.1.2 初歓喜地の相を示す文19

1.2.2.1.2 「地相品」の文

1.2.2.1.2.1 歓喜の縁由を示す文20

1.2.2.1.2.2 歓喜の相違を説く文21

1.2.2.1.3 「浄地品」の文

1.2.2.1.3.1 信力増上を説く文22

1.2.2.1.3.2 深行大悲を説く文23

1.2.2.1.4 「易行品」の文

1.2.2.1.4.1 難易二道判釈の文[254]24

1.2.2.1.4.2 十方十仏章に就いて弥陀易行を顕す[254]25

1.2.2.1.4.3 余仏余菩薩章に就いて弥陀の易行を顕す[254]26

1.2.2.1.4.4 弥陀章に就いて正しく弥陀易行を顕す[258]27

1.2.2.1.4.5 弥陀章の偈讃[260]28

1.2.2.2 天親『浄土論』二文

1.2.2.2.1 偈頌の文29

1.2.2.2.2 長行の文30

1.2.3 釈文の一、中国の師釈

1.2.3.1 曇鸞『浄土論註』四文

1.2.3.1.1 (巻上)発端の文(教判文)[279]31

1.2.3.1.2 (巻上)三念文釈の文[282]32

1.2.3.1.3 (巻上)成上起下の文[284]33

1.2.3.1.4 (巻下)回向文釈の文[316]34

1.2.3.2 道綽『安楽集』四文

1.2.3.2.1 (巻上)念仏功能の文[381]35

1.2.3.2.2 (巻下)諸障皆除の文[419]36

1.2.3.2.3 (巻下)具足功徳の文[422]37

1.2.3.2.4 (巻上)証誠勧信の文[411]38

1.2.3.3 善導の四釈十文

1.2.3.3.1 『往生礼讃』五文(智昇『礼懺儀』下(47・466以下)による)

1.2.3.3.1.1 前序、一行三昧の文[651]39

1.2.3.3.1.2 日没礼讃名義の文[653]40

1.2.3.3.1.3 初夜礼讃の三偈文[658]41

1.2.3.3.1.4 後序、現世利益の文[682]42

1.2.3.3.1.5 後序、護念と往生を示す文[682]43

1.2.3.3.2 『玄義分』二文

1.2.3.3.2.1 弘願釈の文[443]44

1.2.3.3.2.2 六字釈の文[457]45

1.2.3.3.3 『観念法門』二文

1.2.3.3.3.1 摂生増上縁の文[635]46

1.2.3.3.3.2 証生増上縁の文[638]47

1.2.3.3.4 『般舟讃』の文[688]48

1.2.3.4 自釈

1.2.3.4.1 帰命字訓釈49

1.2.3.4.2 発願回向の釈50

1.2.3.4.3 即是其行の釈51

1.2.3.4.4 必得往生の釈52

1.2.3.5 法照『五会法事讃』八文

1.2.3.5.1 (巻本)序文の文53

1.2.3.5.2 (巻本)五会念仏の釈文54

1.2.3.5.3 (巻本)荘厳の文55

1.2.3.5.4 偈讃の一

1.2.3.5.4.1 (巻本)「浄土楽讃」の文56

1.2.3.5.4.2 (巻本)「正法楽讃」の文57

1.2.3.5.4.3 (巻本)「西方楽讃」の文58

1.2.3.5.5 偈讃の二

1.2.3.5.5.1 (巻本)「般舟三昧楽讃」の文59

1.2.3.5.5.2 (巻末)「観経楽讃」の文60

1.2.3.6 憬興『無量寿経述文賛』十文

1.2.3.6.1 (巻中)『大経』の文61

1.2.3.6.2 (巻中取意)浄土の因果を証す文62

1.2.3.6.3 (巻中)回施功徳の文63

1.2.3.6.4 (巻下)宿因聞法の文64

1.2.3.6.5 (巻下)正勧往生の文65

1.2.3.6.6 (巻下)傷嘆重勧の文66

1.2.3.6.7 (巻中)願力釈の文67

1.2.3.6.8 (巻下)勝聖共生釈の文68

1.2.3.6.9 (巻下)此土修行釈の文69

1.2.3.6.10 (巻下)聞名不退の文70

1.2.3.7 宗暁『楽邦文類』71

1.2.3.8 慶文法師の文72

1.2.3.9 元照律師の釈七文

1.2.3.9.1 『観経義疏』(巻上)浄土に帰すべきを示す文73

1.2.3.9.2 『観経義疏』(巻上)念仏に魔事なきを示す文74

1.2.3.9.3 『阿弥陀経義疏』果号の徳を示す文75

1.2.3.9.4 『阿弥陀経義疏』持名益を示す文76

1.2.3.9.5 『阿弥陀経義疏』往生利益を勧むる文77

1.2.3.9.6 『観経義疏』(巻上)慈雲法師(遵式)古釈勧信の文78

1.2.3.9.7 『観経義疏』(巻上)慈雲の解釈文79

1.2.3.10 戒度『観経義疏正観記』(巻下)仏名万徳の文80

1.2.3.11 用欽律師の釈二文81

1.2.3.12 嘉祥『観経義疏』の文82

1.2.3.13 法位『大経義疏』の文83

1.2.3.14 飛錫『念仏三昧宝王論』(巻上)の文84

1.2.4 釈文の二、日本の師釈

1.2.4.1 源信『往生要集』五文

1.2.4.1.1 (巻下・本)念仏証拠門の文[882]85

1.2.4.1.2 (巻上・末)礼拝門の六種功徳の文[780]86

1.2.4.1.3 (巻上・末)礼拝門の六応念の文[781]87

1.2.4.1.4 (巻上・末)作願門の文[792]88

1.2.4.1.5 (巻下・末)臨終念相の文[906]89

1.2.4.2 源空『選択集』二文

1.2.4.2.1 (巻上)文前要義の文[929]90

1.2.4.2.2 (巻下)流通総結の文[990]91

1.2.5 結釈

1.2.5.1 正勧92

1.2.5.2 引証『浄土論註』(巻下)正勧の証文[325]93

1.3 総結

1.3.1 他力、行徳を挙げて行信を勧む

1.3.1.1 正説94

1.3.1.2 引証 龍樹・曇鸞の法語[260][279]95

1.3.2 両重因縁

1.3.2.1 正釈96

1.3.2.2 引証 『往生礼讃』[651]・『五会讃』『散善義』[559]97

1.3.3 行一念釈

1.3.3.1 正釈 98

1.3.3.2 引証

1.3.3.2.1 経文『大経』付嘱の文99

1.3.3.2.2 釈文、善導『散善義』[543][537]『礼讃』[683]『礼懺儀』100

1.3.3.3 釈義

1.3.3.3.1 乃至釈101

1.3.3.3.2 大利無上釈102

1.3.3.3.3 専心専念釈103

1.3.3.3.4 一念転釈104

1.3.3.4 大行利益 行一念釈の総結105

1.3.3.5 十念釈[401]106

1.3.4 結釈 大行釈の総結 107

2 重釈要義

2.1 他力釈

2.1.1 正釈108

2.1.2 引文

2.1.2.1 曇鸞『浄土論註』(巻下)の文

2.1.2.1.1 園林遊戯地門の釈[345]109

2.1.2.1.2 二利成就を明かす文[346]110

2.1.2.1.3 二利満足を結ぶ文[346]111

2.1.2.2 元照『観経義疏』(巻上)取意112

2.2 一乗海釈

2.2.1 一乗釈

2.2.1.1 正釈113

2.2.1.2 『涅槃経』四文

2.2.1.2.1 「易行品」の文114

2.2.1.2.2 「徳王品」の文115

2.2.1.2.3 「師子吼品」の文(畢竟)116

2.2.1.2.4 「師子吼品」の文(一非)117

2.2.1.3 晋訳『華厳経』の文118

2.2.1.4 結文119

2.2.2 海釈

2.2.2.1 正釈120

2.2.2.2 『大無量寿経』(巻下)の証文121

2.2.2.3 曇鸞『論註』二文

2.2.2.3.1 (巻下)不虚作住持功徳の文[331]122

2.2.2.3.2 (巻上)大衆功徳の文[302]123

2.2.2.4 善導の釈二文

2.2.2.4.1 『観経疏』玄義分の一乗海の文[441]124

2.2.2.4.2 『般舟讃』の文[687]125

2.2.2.5 宗暁『楽邦文類』(巻四)の文126

2.2.3 一乗の機教

2.2.3.1 約教対顕

2.2.3.1.1 念仏諸行比較対論127

2.2.3.1.2 念仏の法の絶対的価値を顕す128

2.2.3.2 約機対顕

2.2.3.2.1 機について相対的対顕129

2.2.3.2.2 本願他力を信ずる機の絶対的価値を顕す130

2.2.4 一乗海嘆釈

2.2.4.1 総嘆131

2.2.4.2 出喩 悲願一乗海讃歎132

2.2.4.3 結文133

3 正信念仏偈

3.1 来意

3.1.1 真宗の綱要134

3.1.2 正信偈造意 『論註』の文[282]135

3.2 偈頌

3.2.1 総讃136

3.2.2 依経段

3.2.2.1 弥陀章137

3.2.2.2 釈迦章138

3.2.2.3 結誠139

3.2.3 依釈段

3.2.3.1 総讃140

3.2.3.2 龍樹章141

3.2.3.3 天親章142

3.2.3.4 曇鸞章143

3.2.3.5 道綽章144

3.2.3.6 善導章145

3.2.3.7 源信章146

3.2.3.8 源空章147

3.2.3.9 結勧148

 

信巻

別序

1.1 二尊の大悲1

1.2 沈迷の二機 2

1.3 信順の己証と述作の意趣3

1.4 総結4

信巻

1 真実信

1.1 大信釈

1.1.1 総標1

1.1.2 正顕

1.1.2.1 大信の相2

1.1.2.2 大信の本源3

1.1.2.3 信楽難獲4

1.1.2.4 大信の利益5

1.2 経文証

1.2.1 因願文

1.2.1.1 『大無量寿経』(巻上)の文6

1.2.1.2 『無量寿如来会』(巻上)の文[190]7

1.2.2 成就文

1.2.2.1 『大無量寿経』(巻下)の文8

1.2.2.2 『無量寿如来会』(巻下)の文[203]9

1.2.3 獲信利益の文

1.2.3.1 『大無量寿経』(巻下)の文10

1.2.3.2 『無量寿如来会』(巻下)の文

1.2.3.2.1 大威徳者の文[212]11

1.2.3.2.2 如来功徳の偈文[213]12

1.3 釈文証

1.3.1 曇鸞大師の釈二文

1.3.1.1 『論註』(巻下)の文

1.3.1.1.1 光明智相を示す一段[314]13

1.3.1.1.2 破闇満願と実相身・為物身を示す一段[314]14

1.3.1.1.3 三不信を示し如実修行相応を反顕[314]15

1.3.1.2 『讃阿弥陀仏偈』の文[357]16

1.3.2 善導大師の釈五文

1.3.2.1 「正善義」の文[528]17

1.3.2.2 「序分義」の文[496]18

1.3.2.3 「散善義」の文

1.3.2.3.1 三心正因の文[532]19

1.3.2.3.2 至誠心釈[533]20

1.3.2.3.3 深心釈[534]21

1.3.2.3.4 回向発願心釈[538]22

1.3.2.4 『般舟讃』の文[685]23

1.3.2.5 『往生礼讃』(礼懺儀による)の文[649]24

1.3.3 源信和尚の釈

1.3.3.1 『往生要集』(巻上末)[791]25

1.3.3.2 『往生要集』(巻中本)[809]26

1.4 総結27

2 三心一心問答

2.1 第一の問答、三心字訓釈

2.1.1 問28

2.1.2 略答29

2.1.3 三心字訓30

2.1.4 字訓融会31

2.1.5 結釈32

2.2 第二の問答、三心別相釈(仏意釈)

2.2.1 問33

2.2.2 至心釈

2.2.2.1 至心の体相34

2.2.2.2 経文証

2.2.2.2.1 『大無量寿経』(巻上)の文35

2.2.2.2.2 『無量寿如来会』(巻上)の文[195]36

2.2.2.3 釈文証

2.2.2.3.1 善導『散善義』一文[533]37

2.2.2.4 結釈

2.2.2.4.1 至心結歎38

2.2.2.4.2 『涅槃経』により真実の追釈39

2.2.2.4.3 内外明闇の釈 「散善義」[534]『涅槃経』40

2.2.3 信楽釈

2.2.3.1 信楽の体相41

2.2.3.2 経文証

2.2.3.2.1 『大無量寿経』(巻下)の文42

2.2.3.2.2 『無量寿如来会』(巻下)の文[203]43

2.2.3.2.3 『涅槃経』の三文

2.2.3.2.3.1 「師子吼菩薩品」の文44

2.2.3.2.3.2 「迦葉菩薩品」の第一文45

2.2.3.2.3.3 「迦葉菩薩品」の第二文46

2.2.3.2.4 『華厳経』の三文

2.2.3.2.4.1 「入法界品」の第一文47

2.2.3.2.4.2 「入法界品」の第二文48

2.2.3.2.4.3 「賢首品」の文49

2.2.3.3 釈文証

2.2.3.3.1 曇鸞大師の釈二文

2.2.3.3.1.1 『論註』(巻下)の文[314]50

2.2.3.3.1.2 『論註』(巻下)の文[348]51

2.2.4 欲生釈

2.2.4.1 欲生の体相52

2.2.4.2 経文証

2.2.4.2.1 『大無量寿経』(巻下)の文53

2.2.4.2.2 『無量寿如来会』(巻下)の文[203]54

2.2.4.3 釈文証

2.2.4.3.1 曇鸞『論註』(巻下)の三文

2.2.4.3.1.1 云何回向の文[316]55

2.2.4.3.1.2 浄入願心の文[336]56

2.2.4.3.1.3 出第五門の文[345]57

2.2.4.3.2 善導『散善義』の文[538]58

2.2.4.4 助釈

2.2.4.4.1 自釈

2.2.4.4.1.1 白道四五寸釈59

2.2.4.4.1.2 能生清浄願心釈60

2.2.4.4.2 善導『観経疏』の三文

2.2.4.4.2.1 「玄義分」の文[441]61

2.2.4.4.2.2 「序分義」の文[485]62

2.2.4.4.2.3 「定善義」の文[511]63

2.3 問答結帰

2.3.1 三心結釈

2.3.1.1 三心即一心64

2.3.1.2 信心・名号関係65

2.3.1.3 大信嘆徳66

2.3.2 菩提心釈

2.3.2.1 二双四重の釈67

2.3.2.2 道俗勧誠68

2.3.2.3 横超菩提心の引文

2.3.2.3.1 曇鸞『論註』(巻下)の文[339]69

2.3.2.3.2 元照『弥陀経義疏』三文

2.3.2.3.2.1 甚難希有の文70

2.3.2.3.2.2 世間難信の文71

2.3.2.3.2.3 二難弁成の文72

2.3.2.3.3 用欽『超玄記』の文(この書いま伝わらず)73

2.3.2.3.4 戒度『聞持記』の文74

2.3.2.3.5 自釈(『讃阿弥陀偈』の仏名より嘆徳)75

2.3.2.3.6 宗暁『楽邦文類』後序76

2.3.3 信一念釈

2.3.3.1 総標77

2.3.3.2 経・釈引文

2.3.3.2.1 『大無量寿経』(巻下)一八願成就の文78

2.3.3.2.2 『如来会』(巻下)願成就の文[203]79

2.3.3.2.3 『大経』(巻下)聞名の文80

2.3.3.2.4 『如来会』(巻下)の文[204]81

2.3.3.2.5 『涅槃経』迦葉菩薩品の聞不具足を明す文82

2.3.3.2.6 善導『散善義』の二語[573][536]83

2.3.3.3 経釈文自釈

2.3.3.3.1 成就文、聞信一念の釈84

2.3.3.3.2 獲信の利益85

2.3.3.3.3 専念専心の釈文86

2.3.3.4 一念転釈

2.3.3.4.1 正転釈87

2.3.3.4.2 仏道正因釈88

2.3.3.4.3 曇鸞『論註』二文

2.3.3.4.3.1(巻下)菩提心の文[339]89

2.3.3.4.3.2(巻上)是心作仏の文[301]90

2.3.3.4.4 善導『散善義』の文[519]91

2.4 三心一心総結

2.4.1 三心結釈92

2.4.2 菩提心追釈93

3 重釈要義

3.1 正定聚機

3.1.1 横超釈

3.1.1.1 義釈94

3.1.1.2 文証

3.1.1.2.1 『大無量寿経』三文

3.1.1.2.1.1 (巻下)願の超勝を示す文95

3.1.1.2.1.2 (巻上)名声の超を示す文96

3.1.1.2.1.3 (巻上)益の超絶を示す文97

3.1.1.2.2 『大阿弥陀経』(巻下)の文[166]98

3.1.2 断四流釈

3.1.2.1 義釈99

3.1.2.2 文証

3.1.2.2.1 『大無量寿経』(巻下)の文100

3.1.2.2.2 『平等覚経』(巻二)の文[100]101

3.1.2.2.3 『涅槃経』師子吼菩薩品の文102

3.1.2.2.4 善導和尚の釈文

3.1.2.2.4.1 『般舟讃』の文[726]103

3.1.2.2.4.2 『往生礼讃』の文[652]104

3.1.3 真仏弟子

3.1.3.1 義釈105

3.1.3.2 経文証

3.1.3.2.1 『大経』(巻上)二文

3.1.3.2.1.1 第三三願、触光柔軟の願106

3.1.3.2.1.2 第三四願、聞名得忍の願107

3.1.3.2.2 『如来会』(巻上)の文[192]108

3.1.3.2.3 『大経』(巻下)の文

3.1.3.2.3.1 往観の偈文109

3.1.3.2.3.2 智慧明達功徳殊勝の文110

3.1.3.2.4 『如来会』(観下)二文

3.1.3.2.4.1 広大勝解者の文[212]111

3.1.3.2.4.2 大威徳者の文[212]112

3.1.3.2.5 『観経』喩説の文113

3.1.3.3 正依の釈文証

3.1.3.3.1 道綽『安楽集』の五文

3.1.3.3.1.1 (巻上)説聴方軌の文[379]114

3.1.3.3.1.2 (巻上)諸仏現前の文[415]115

3.1.3.3.1.3 (巻下)念仏の恩徳を明かす文[416]116

3.1.3.3.1.4 (巻下)菩提心功用の文[388]117

3.1.3.3.1.5 (巻下)常行大悲の文[423]118

3.1.3.3.2 善導大師の釈八文

3.1.3.3.2.1 『般舟讃』の三文[695][700][701]119

3.1.3.3.2.2 『往生礼讃』の文[611]120

3.1.3.3.2.3 『往生礼讃』の文[677]121

3.1.3.3.2.4 『観念方門』の文[628]122

3.1.3.3.2.5 『序分義』の文[494]123

3.1.3.3.2.6 『散善義』の文[558]124

3.1.3.4 傍依の釈文証

3.1.3.4.1 王日休『龍序浄土文』の跋文125

3.1.3.4.2 経文引証

3.1.3.4.2.1 『大経』(巻下)の文126

3.1.3.4.2.2 『如来会』(巻下)の文[211]127

3.1.3.4.3 用欽(『阿弥陀経疏超玄記』・いま伝わらず)の文128

3.1.3.5 結釈

3.1.3.5.1 正結129

3.1.3.5.2 文証

3.1.3.5.2.1 宗暁『楽邦文類』(巻五)130

3.1.3.5.2.2 宗暁『楽邦文類』(巻三)131

3.1.3.6 仮偽の仏弟子

3.1.3.6.1 仮釈132

3.1.3.6.2 文証

3.1.3.6.2.1 善導『般舟讃』の文[689]133

3.1.3.6.2.2 善導『法事讃』(巻下)の文[586]134

3.1.3.6.2.3 善導『般舟讃』の文[689]135

3.1.3.6.3 偽釈136

3.1.3.6.4 文証

3.1.3.6.4.1 『涅槃経』大衆問品の文137

3.1.3.6.4.2 善導『法事讃』(巻下)の文[604]138

3.1.3.7 悲歎述懐139

3.2 抑止文釈

3.2.1 難治の機(『涅槃経』引文)

3.2.1.1 「現病品」の文140

3.2.1.2 「梵行品」の文141

3.2.1.3 「梵行品」の文142

3.2.1.4 「迦葉品」の文143

3.2.2 結成勧信144

3.2.3 逆謗摂不の問答

3.2.3.1 問145

3.2.3.2 釈答

3.2.3.2.1 曇鸞『浄土論註』(巻上)[308]146

3.2.3.2.2 善導の釈二文

3.2.3.2.2.1「散善義」の文[555]147

3.2.3.2.2.2『法事讃』の文[567]148

3.2.3.3 五逆追釈 永観『往生十因』により『最勝王経疏』等を引釈149

 

証巻

1 真実証

1.1 総標1

1.2 大証釈義

1.2.1 真実証の出拠2

1.2.2 証果の徳相3

1.2.3 主伴同証4

1.3 経文釈

1.3.1 本願文

1.3.1.1 『大無量寿経』(巻上)の文5

1.3.1.2 『無量寿如来会』(巻上)の文[190]6

1.3.2 成就文

1.3.2.1 『大無量寿経』

1.3.2.1.1 (巻下)の文、正引7

1.3.2.1.2 (巻上)の文、助顕8

1.3.2.2 『無量寿如来会』(巻下)の文[203]9

1.4 釈文証

1.4.1 曇鸞『浄土論註』五文

1.4.1.1 (巻下)妙声功徳の文[324]10

1.4.1.2 (巻下)主功徳の文[324]11

1.4.1.3 (巻下)眷属功徳の文[324]12

1.4.1.4 (巻下)大義門功徳の文[325]13

1.4.1.5 (巻下)清浄功徳の文[319]14

1.4.2 道綽『安楽集』(巻下)の一文[431]15

1.4.3 善導『観経四帖疏』の二文

1.4.3.1 「玄義分」の文[443]16

1.4.3.2 「定善義」の文[504]17

1.5 相結18

2 還相回向

2.1 総標

2.1.1 還相釈19

2.1.2 還相回向の出拠20

2.1.3 願の名21

2.2 引証

2.2.1 経文22

2.2.2 論文

2.2.2.1 天親『浄土論』の文23

2.2.3 釈文 曇鸞『浄土論註』の九文

2.2.3.1 起観生信の文[316]24

2.2.3.2 観行体相の文[331]25

2.2.3.3 浄入願心の文[336]26

2.2.3.4 善巧摂化の文[338]27

2.2.3.5 離菩提障の文[340]28

2.2.3.6 順菩提門の文[341]29

2.2.3.7 名義摂対の文[342]30

2.2.3.8 願事成就の文[343]31

2.2.3.9 利行満足の文[343]32

2.3 総結33

 

真仏土巻

1 真仏土釈

1.1 直釈

1.1.1 総標1

1.1.2 真報の異議2

1.1.3 一二、一三願名3

1.2 経文証

1.2.1 願文

1.2.1.1 『大無量寿経』(巻上)の二文

1.2.1.1.1 第一二願、光明無量の願4

1.2.1.1.2 第一三願、寿命無量の願5

1.2.2 成就文

1.2.2.1 『大無量寿経』(巻上)の文

1.2.2.1.1 第一二願成就文6

1.2.2.1.2 第一三願成就文7

1.2.2.2 『如来会』の願成就文[196]8

1.2.2.3 『平等覚経』(巻二)往観偈の文[100]9

1.2.2.4 『大阿弥陀経』(巻上)光明無量の文[140]10

1.2.2.5 『不空羂索神変真言経』(巻二一)の文11

1.2.2.6 『涅槃経』の文

1.2.2.6.1 「四相品」の文12

1.2.2.6.2 「四依品」の文13

1.2.2.6.3 「聖行品」の文14

1.2.2.6.4 「梵行品」の文15

1.2.2.6.5 「徳王品」の三文

1.2.2.6.5.1 四楽16

1.2.2.6.5.2 四種の浄徳17

1.2.2.6.5.3 如来の意義18

1.2.2.6.6 「迦葉品」の三文

1.2.2.6.6.1 仏性常住の要義19

1.2.2.6.6.2 第二文の一、如来の知根力を示す20

1.2.2.6.6.3 第二文の二、涅槃の名義を示す21

1.2.2.6.7 「梵行品」の文22

1.2.2.6.8 「迦葉品」の文

1.2.2.6.8.1 生身と法身23

1.2.2.6.8.2 悉有仏性24

1.2.2.6.9 「師子吼品」の文25

1.3 論釈文証

1.3.1 天親『浄土論』一文26

1.3.2 曇鸞大師の釈二文

1.3.2.1 『浄土論註』

1.3.2.1.1 (巻下)観行体相、清浄功徳の文[319]27

1.3.2.1.2 (巻上)性功徳の文[287]28

1.3.2.1.3 (巻上)大義門功徳の文[297]29

1.3.2.1.4 (巻下)観行体相、仏土不思議の文[317]30

1.3.2.1.5 (巻下)観行体相、二利円満の文[326]31

1.3.2.1.6 (巻下)不虚作住持功徳の文[331]32

1.3.2.2 『讃阿弥陀仏偈』の文

1.3.2.2.1 如来の威神光明を讃嘆[350]33

1.3.2.2.2 龍樹の化導と鸞師の自督[364]34

1.3.3 善導大師の釈六文

1.3.3.1 『観経疏』「玄義分」の文

1.3.3.1.1 弥陀の浄土の報化を論定[457]35

1.3.3.1.2 弥陀、報身なるを示す[458]36

1.3.3.1.3 弥陀の報身報土を決着[458]37

1.3.3.1.4 五乗斉入の浄土を明かす[459]38

1.3.3.2 『観経疏』「序分義」欣浄縁の文[487]39

1.3.3.3 『観経疏』「定善義」の文[504]40

1.3.3.4 『法事讃』(巻下)の三文

1.3.3.4.1 転経分第九段[597]41

1.3.3.4.2 転経分第六段[592]42

1.3.3.4.3 後行分の文[615]43

1.3.4 憬興『述文賛』(巻中)の文44

1.4 結釈

1.4.1 真実報土の結証45

1.4.2 得証弁

1.4.2.1 彼土見性46

1.4.2.2 『起信論』の文(飛錫『念仏三昧宝王論』による)47

1.4.3 真仮対弁

1.4.3.1 報土の総釈48

1.4.3.2 報土の別釈49

1.4.3.3 仮土を示す50

1.4.4 結釈勧信51

 

化身土巻

1 総釈

1.1 化の仏土標定

1.1.1 化身1

1.1.2 化土2

2 要門釈、第一九願開説、観経の意

2.1 要門の興由、第一九願の大旨

2.1.1 所化の機類、第一九願の所被の機類を示す3

2.1.2 二尊の能化4

2.1.3 要門の本願、第一九願名5

2.1.4 異名布列6

2.2 経文引証

2.2.1 因願文

2.2.1.1 『大無量寿経』(巻上)の文、第一九願文7

2.2.1.2 『悲華経』諸菩薩本授記品の文8

2.2.2 成就文指示9

2.2.3 化身土の証文

2.2.3.1 『大経』(巻下)道樹講堂の文10

2.2.3.2 『大経』『如来会』の疑城胎宮の文

2.2.3.2.1 『大経』(巻下)胎化得失の文11

2.2.3.2.2 『如来会』(巻下)胎化得失の文[209]12

2.2.3.3 『大経』『如来会』の不可称計の文

2.2.3.3.1 『大経』(巻下)十方来生の文13

2.2.3.3.2 『如来会』(巻下)胎化得失の文[211]14

2.3 釈文引証

2.3.1 善導『観経疏』「定善義」地想観の文[508]15

2.3.2 憬興『述文賛』(巻下)の文16

2.3.3 源信『往生要集』(巻下末)の文[898]17

2.4 結勧18

2.5 三経隠顕問答

2.5.1 問、『大』・『観』二経三心一異19

2.5.2 答、隠顕釈

2.5.2.1 観経隠顕の標挙20

2.5.2.2 観経顕義21

2.5.2.3 観経隠義22

2.5.2.4 観経隠彰一三文23

2.5.2.5 結釈24

2.5.3 釈文引証

2.5.3.1 善導大師の釈十四文

2.5.3.1.1 『観経疏』「玄義分」序題門の文[443]25

2.5.3.1.2 『観経疏』「玄義分」宗旨門の文[446]26

2.5.3.1.3 『観経疏』「序分義」証信序の文[464]27

2.5.3.1.4 『観経疏』「序分義」散善顕行縁の文[489]28

2.5.3.1.5 『観経疏』「散善義」上上品釈の文[533]29

2.5.3.1.6 『観経疏』「序分義」発起序の二文[465]および「散善義」後序の一文[559]30

2.5.3.1.7 『往生礼讃』前序の文[648]31

2.5.3.1.8 『往生礼讃』前序の文[652]32

2.5.3.1.9 『観念法門』護念縁の文[629]33

2.5.3.1.10 『法事讃』(巻下)転経分の文[604]34

2.5.3.1.11 『般舟讃』正讃の文[687]35

2.5.3.1.12 『般舟讃』正散倶回の文[726]36

2.5.3.2 曇鸞『浄土論註』成上起下の文[284]37

2.5.3.3 道綽『安楽集』の二文

2.5.3.3.1 (巻上)『大集経』月蔵分の取意をもって化前の教意を顕す[410]38

2.5.3.3.2 (巻下)末法の機に約して聖道修行の不可能を説く[429]39

2.6 三経通顕(真仮分判)

2.6.1 三経真仮40

2.6.2 『観経』隠顕

2.6.2.1 方便門41

2.6.2.2 要門の教行信証42

2.6.2.3 『観経』の真実門43

2.6.3 機相広述

2.6.3.1 機相総説[443]44

2.6.3.2 随釈45

2.6.3.3 門釈46

2.6.4 聖浄二門釈

2.6.4.1 聖道門の意義47

2.6.4.2 浄土門の意義48

2.6.4.3 正助雑釈49

2.6.4.4 横超釈50

2.6.4.5 雑行釈51

2.6.4.6 正助釈52

2.6.4.7 雑行雑修の異名と結釈53

2.6.5 『大』・『観』二経三心一異問答結釈54

2.7 三経融会問答

2.7.1 『大』『観』三心『小経』一心一異の問55

2.7.2 方便相の総答56

2.7.3 隠顕義の別答

2.7.3.1 標挙57

2.7.3.2 『小経』顕義解釈58

2.7.3.3 隠義解釈、小経の隠彰59

2.7.3.4 執持一心釈60

2.7.3.5 無問時説経61

2.7.4 三経一致結釈

2.7.4.1 列祖弘伝62

2.7.4.2 三経大綱63

3 真門釈、第二〇願開説『小経』の意

3.1 第二〇願大意

3.1.1 総標64

3.1.2 方便真門の行信

3.1.2.1 標65

3.1.2.2 雑心釈66

3.1.2.3 専心釈67

3.1.2.4 善本釈68

3.1.2.5 徳本釈69

3.1.3 二尊の能化と真門の興出70

3.1.4 真門の本源、第二〇願名と異名布列71

3.2 善本の経文証

3.2.1 『大無量寿経』の三文

3.2.1.1 因願文(巻上)第二〇願標挙72

3.2.1.2 成就文(巻下)胎化得失の文73

3.2.1.3 (巻下)往観偈の文により果遂の益を明かす74

3.2.2 『無量寿如来会』(巻上)第二〇願[190]75

3.2.3 『平等覚経』(巻二)往観偈の文[100]76

3.2.4 『観無量寿経』流通分の文77

3.2.5 『阿弥陀経』因果段の文78

3.3 善本の釈文証

3.3.1 善導大師の釈九文

3.3.1.1 『観経疏』「正善義」真身観の文[522]79

3.3.1.2 『観経疏』「散善義」の三文

3.3.1.2.1 上品上生釈により諸仏証誠の念仏を明かす[534]80

3.3.1.2.2 下品下生釈[552]81

3.3.1.2.3 流通分[558]82

3.3.1.3 『法事讃』の三文

3.3.1.3.1 (巻下)転経分の文[597]83

3.3.1.3.2 (巻下)後行分の文[611]84

3.3.1.3.3 (巻下)転経分の文[604]85

3.3.1.4 『般舟讃』総讃[688]86

3.3.1.5 『往生礼讃』前序の文[652]87

3.3.2 前照『弥陀経義疏』一文88

3.3.3 孤山(智円)『弥陀経疏』一文89

3.4 勧信経文証(別引)

3.4.1 『大無量寿経』(巻下)一文90

3.4.2 『涅槃経』の三文

3.4.2.1 「迦葉品」の二文

3.4.2.1.1 第一文、善知識・邪見・信心を説く91

3.4.2.1.2 第二文、信不具足を説いて信心を解説92

3.4.2.2 「徳王品」の文93

3.4.3 唐訳『華厳経』の二文

3.4.3.1 「入法界品」の文、善知識を讃う94

3.4.3.2 「入法界品」の文、如来・大師の大恩を述ぶ95

3.5 勧信釈文証(別引)

3.5.1 善導『般舟讃』正讃の文[695][700]96

3.5.2 善導『往生礼讃』初夜讃の文[661]97

3.5.3 善導『法事讃』の二文

3.5.3.1 (巻下)後行文懺悔文[611]98

3.5.3.2 (巻下)後行文の文[615]99

3.6 真門結釈

3.6.1 真門四失100

3.6.2 悲嘆述懐101

3.6.3 自力念仏の失102

3.7 三願転入

3.7.1 親鸞入信の述懐103

3.7.2 仰信の自督104

4 聖浄二道判と真偽決判

4.1 聖浄二門を挙げて時機を判ず105

4.2 五説・四依を挙げて真偽を決す

4.2.1 五説106

4.2.2 四依、『大智度論』により修道の規範を示す107

4.3 二門真仮顕開・時代勘決

4.3.1 総標108

4.3.2 『安楽集』の時代判

4.3.2.1 (巻下)第五大門の文[421]109

4.3.2.2 (巻上)第一大門の文[378]110

4.3.2.3 (巻下)第六大門の文[427]111

4.3.2.4 (巻上)第三大門の文[410]112

4.3.3 道俗を勧誠113

4.3.4 時代勘決114

4.3.5 伝教大師『末法燈明記』の文引証

4.3.5.1 総説115

4.3.5.2 正像末を決す116

4.3.5.3 破持僧の事を彰す

4.3.5.3.1 第一重問答117

4.3.5.3.2 第二重問答118

4.3.5.3.3 第三重問答119

4.3.5.3.4 第四重問答120

4.3.5.4 教を挙げて比例す121

5 内外両道の真偽決判(後にここより末巻とす)

5.1 総標122

5.2 経文証

5.2.1 『涅槃経』「如来性品」123

5.2.2 『般舟三昧経』二文

5.2.2.1 広明 帰三宝を明かす124

5.2.2.2 略明 外部を誠む125

5.2.3 『日蔵経』の文

5.2.3.1 『大集経』星宿品の文

5.2.3.1.1 天地星宿の運行を信仰的に証説126

5.2.3.1.2 仏法守護の四天王配置を説く127

5.2.3.1.3 未来の星宿等の配置を説く128

5.2.3.2 『大集経』(巻四三)念仏品の文

5.2.3.2.1 念仏三昧の人には諸魔の帰服するを示す129

5.2.3.2.2 聞法の得益を明かす130

5.2.3.2.3 思惟修行の方軌を明かす131

5.2.3.3 「護塔品」の文132

5.2.4 『月蔵経』の文

5.2.4.1 『大集経』(巻五〇)「諸悪鬼神得敬信品」の文133

5.2.4.2 『大集経』(巻五一)「諸悪鬼神得敬信品」の文134

5.2.4.3 『大集経』「諸天王護持品」の文

5.2.4.3.1 空居四天王、仏法のために須弥四州を守護しつつあるを明かす135

5.2.4.3.2 地居四天王、仏法のために須弥四州を護持することを明かす136

5.2.4.3.3 三曜・七宿・三天童女を四方に配置、護持養育せしむ137

5.2.4.3.4 四天王が南閻浮提を仏法流通の地として特別に護持する一段138

5.2.4.3.5 結答139

5.2.4.3.6 仏、梵王の請を印可し重ねて偈を説きたまう140

5.2.4.4 (巻五一)「諸天王護持品」の文

5.2.4.4.1 過去の四仏、娑婆世界護持の付嘱を顕す141

5.2.4.4.2 梵王、釈尊に仏法のため国土守護を誓う142

5.2.4.4.3 世尊の印可143

5.2.4.4.4 梵王、仏勅を受領し、仏徳を讃じ奉る144

5.2.4.4.5 世尊の重頌145

5.2.4.5 (巻五二)「諸魔得敬信品」の文146

5.2.4.6 (巻五二)「提頭頼吒天王護持品」の文および「毘沙門天王品」の文147

5.2.4.7 (巻五三)「忍辱品」の文

5.2.4.7.1 末世無戒比丘の功徳と諸天の修道者護持の誓を説く148

5.2.4.7.2 龍・鬼衆の誓言を説く149

5.2.4.8 晋訳『華厳経』「十地品」の文150

5.2.5 『首楞厳経』(巻六)の文151

5.2.6 『灌頂経』(巻三)152

5.2.7 新訳『地蔵十輪経』の二文153

5.2.8 『集一切福徳三昧経』(巻中)の文154

5.2.9 『薬師琉璃光如來本願功徳経』二文155

5.2.10 『梵網経』(巻下)の文156

5.2.11 『仏本行集経』157

5.3 論文証

5.3.1 馬鳴『起信論』一文158

5.4 釈文証

5.4.1 法琳『弁証論』(『広弘明集』所収本の典拠は下に並記す)

5.4.1.1 総標159

5.4.1.2 (巻六)十喩篇第五

5.4.1.2.1 一、一異一喩の文、老子と釈尊の出生上の優劣論160

5.4.1.2.2 四、四異四喩の文、時代の前後、地位の優劣、化縁の広狭161

5.4.1.2.3 六、六異六喩の文、化跡の前後を明かす162

5.4.1.2.4 七、七異七喩の文、終焉に関する優劣論163

5.4.1.3 十喩篇第五の残文重明

5.4.1.3.1 標章、第一異喩の文、左(道教)右(仏教)の優劣164

5.4.1.3.2 第三喩の文、釈尊の独尊を明かす165

5.4.1.3.3 第十喩の文、怨親平等の仏教の真義を述ぶ166

5.4.1.4 (巻六)九箴篇第六

5.4.1.4.1 一、周世無機指167

5.4.1.4.2 二、内建造像塔指168

5.4.1.4.3 同前、内箴の文169

5.4.1.4.4 五、内教為治本指170

5.4.1.5 (巻六)気為道本篇第七171

5.4.1.6 (巻八)出道為謬篇第一〇172

5.4.1.7 (巻八)帰心有地篇第一〇の文173

5.4.2 善導『法事讃』(巻下)[602]174

5.4.3 智顗『法界次第』(巻上ノ下)175

5.4.4 遵式『楽邦文類』(巻二)176

5.4.5 諦観『天台四教儀』の文177

5.4.6 神智『四教儀集解』(巻中)の文178

5.4.7 大智『盂蘭盆経疏新記』の文179

5.4.8 戒度『観経扶新論』の文180

5.4.9 智顗『摩訶止観』(巻八下)の文181

5.4.10 源信『往生要集』(巻中末)の文[845]182

5.5 外典

5.5.1 『論語』(巻六)先進篇の文183

6 後序

6.1 開宗の縁由

6.1.1 聖浄二門の興廃を略示184

6.1.2 広く浄土の教興を明かす

6.1.2.1 逆縁に約して弘化を示す185

6.1.2.2 師弟障難186

6.1.2.3 空師帰洛入滅187

6.1.3 聖人の入宗と稟教188

6.2 本典撰述の本意189

『安楽集』の文[379]190

『華厳経』の文191